2018年08月24日

フーバー研究所にて(2)〜1931年上海北駅宋子文・重光葵暗殺未遂事件について

Hoover Institutionにて。
蒋介石の日記は閲覧できるのはコピーのみなのだけれども、拙著『カレンシー・ウォー〜日中通貨戦争』で準主役級のArthur N Young の日記などは実物を読むことができる。

彼が使った紙に、彼が使ったインクで書かれた文字を読むことができるわけで、日記をめくってゆくと、なんだか彼の書斎でその日にあったできごとを直接語ってもらっているような気分になった。

例えば上海北駅で宋子文および重光葵暗殺未遂事件が発生した翌日の1931年7月24日の記述。

直訳すると、
「上海に午前11時に着き、かわいそうな腴臚(ユールー。宋子文の私設秘書)が死んだと知った。彼は並はずれていい人間で、かつ将来有望だった(32才)。そして、誰からも好かれた。

T.V(宋子文のこと)は同じ日の朝に母親の死の知らせを受けた。彼の気持ちは沈んだが、それをあまり態度には示さなかった。腴臚は自分を守るために盾になろうとしたのだろう、と彼はいい、もしそうでなかったならば、死んだのは彼のほうだっただろう、といった。Lynch(Young の同僚)が23日の午後に彼に会ったとき、彼は聖書を読んでいたらしい。彼は24日の朝に彼の母がいた青島へ発った」

1931年7月23日の重光葵・宋子文暗殺未遂事件については数々の謎とドラマがあった。拙著『上海ノース・ステーション』で詳しく述べたので、ご興味のあるかたはぜひ一読されたい。こちらも『小説集カレンシー・レボリューション』の収録作品。
posted by osono at 07:45 | 歴史(中国史・日中関係史)

2018年08月17日

フーバー研究所にて(1)〜1935年汪兆銘暗殺未遂事件について考えてみた

hooverpic.jpgここ数日フーバー研究所に通いつめて資料を読み漁っている。

フーバー研究所(Hoover Institution)はスタンフォード大学内にある公共シンクタンク。両世界大戦等に関する文書が大量に保存されている。例えば、蒋介石の日記。汪兆銘暗殺未遂事件があった1935年11月1日前後の記述など、実におもしろい。

汪兆銘暗殺未遂事件とは、国民党第四期中央執行委員会第六回大会(六中全会)開会式後の記念撮影で新聞記者として会場内にはいった暗殺者が汪兆銘行政院長(首相に相当)に対して発砲し汪兆銘が瀕死の重症をおった事件。このとき撮影の列の中央に汪兆銘と並んで立つはずだった蒋介石はなぜだかその場におらず、災いを免れた(暗殺者の本来の狙いは蒋介石だったとみられている)。蒋介石と汪兆銘は労働者の扱いや外交方針などでときに対立する政敵同士であり、事件の直後、人々は蒋介石を暗殺の黒幕として疑った。

蒋介石の日記には、暗殺未遂事件のまさに当日の1935年11月1日のところに記念撮影に出なかった理由が書かれている。意訳してみると、
(11月1日の)朝8時前に孫文の陵墓を詣でたときと六中全会開会式における(中央執行委員たちの)「礼節」や「秩序」が相変わらず「紛乱」しており「悲憤」に耐えなかった。

撮影場所に行こうと門から出たときに倭人(日本人のこと)に出くわし、自分が出てくるのを待ち構えてそこにいたようなので、気分が一層重くなった。

撮影場所に行くと「紛乱」した様子であり、心がさらに痛んだ。

党の同志連中は礼を知らず、秩序を守らない。国家を建設する能力を有さないことは一目瞭然だ。

11月1日のページにはここまで書かれている。蒋介石が使用しているのは定型の日記帳で1ページに1日分を記すようになっており、見開きの右側のページでは右側欄外、左側のページでは左側欄外に日付、天気、気温を書き込むようになっている(ついでながら各日のページの上欄外には世界の偉人の名言が一言ずつ印刷されている)。上記は見開き右側の11月1日のページの後半に書かれているのだが、以下は11月2日のページに、おそらく11月1日の場所に書ききれなくなったためにはみ出して、書かれている。
(中央執行委員たちがだらしないから)敵国に侮られ攻められ、友邦国に見くびられる結果となっている。

だから、「悲概」のためにひとり会議場に戻り撮影に参加しなかったのだ。

他の日の記述はその日にあったできごとを簡潔に記すだけのことが多く、翌日のページにはみ出しているこの日の記述は明らかに長い。蒋介石は、おそらく日記が将来他者に読まれるであろうことを意識しており(そのためだろう、あまり字を崩さず記されているので読むのに助かるのだが)、自分の無実を訴えるような気持ちでこの日の記述をしたのだと思う。

でも、党中央執行委員たちの「礼節」「秩序」の「紛乱」はそのときに始まったことではなく(蒋介石も「如故、犹未改正」(以前からそうであり、未だに改善されていない)と記している)、それが理由で撮影に参加しないというのは「自分のほうがよっぽど秩序を乱してますよ」とツッコミたくなるし、日本人を見かけただけで、そんなにも機嫌を壊すというのもよくわからない(ちなみにこのころは日中関係が比較的改善していた時期)。

説得力があるとは言い難い理由が長々と並んでいるのを読むと、却ってなんだか怪しいような印象を受けた。

ところで、このとき蒋介石が見かけた日本人というのはいったい誰なんだろう。おそらくは新聞記者だが、蒋介石が事件に関与していないのであれば、そのひとは蒋介石の命の恩人ということになる。もしその日本人がそこにいなかったならばその後の日中関係、もしくは日本の太平洋戦争へと続く歴史は変わっていたはず。

蒋介石はなぜ撮影現場にいなかったのか、蒋介石が出くわした日本人は何者か、この事件の直後に中国経済の革命というべき弊制改革が断行されるのだが、このタイミングの一致に深い意味はないのか、犯人は蒋介石を狙っていたはずなのになぜ汪兆銘を撃ったのか、そもそも犯人は誰なのか、などなど、1935年11月1日汪兆銘暗殺未遂事件をめぐってはもろもろの謎があるのだけれども、ぼくなりの謎解きを『カレンシー・レボリューション』でしているので、興味のあるかたはぜひ一読いただきたい。


posted by osono at 08:23 | 歴史(中国史・日中関係史)