2016年02月03日

瓦氏夫人(4)

瓦氏夫人があげまんだったのか、結婚後の岑猛は躍進する。

明代の田汝成による『炎徼紀聞』によれば、
正徳元年(1506年)、岑猛は太監(宦官の長官)の劉瑾に賄賂を贈り、偽造された詔勅を得て田州府同知(府行政のナンバーツー)の地位を得た。岑猛は田州の民を慰撫し、軍備を復興・強化し、周辺所領を徐々に侵食していった。自らの昇進も望み、軍功を重ね、知府(府行政の長官)の座を目指し、総督府に対し賊討伐軍の先鋒を願いでた。総督府や官軍の将校で田州に来る者があれば厚く賄賂を贈ってもてなした。岑猛を良くいう者ははなはだ多かった。江西の華林洞で叛乱があり、都御史の陳金は岑猛に討伐を命じた。岑猛の兵は沿路で劫掠をおこなった。民はみな村をでて避難した。(中略)賊は平定され、陳金は岑猛の功を認め、指揮同知(府軍事のナンバーツー)に昇進させた。


ところが、年号が嘉靖にかわったころから、歯車が逆回転をはじめる。
おなじく『炎徼紀聞』によれば、
希望の官職を得られない岑猛は、それを恨み傲慢になった。総督府や官軍将校は以前のように賄賂を得られなくなり、岑猛を誹謗するようになった。岑猛は軍備を拡張し周辺土官をしのぐようになり、常に周囲を憎しみの目で見て、恨みは報復しなければやむことはなかった。岑猛は莫大な蓄財をおこなっているといわれた。都御史の盛応期はその財の一部を欲した。岑猛が不遜な言葉を発したため盛応期は大いに怒り、岑猛は早晩必ず叛乱を起こすと上疏し討伐を請うたが朝廷からの回答はなかった。盛応期は転任し、都御史の姚鏌がこれにかわった。姚鏌は岑猛に反心がないことを知っており、挙兵を望まず、子の姚淶が書で討伐をしないよう請願した。そのころ巡按御史の謝汝儀と姚鏌は不仲であった。巡按御史は総督に謁見するとき掖門からはいらなければならないのに、謝汝儀は直接儀門からはいったことから姚鏌は謝汝儀に会わなかった。謝汝儀は大いに怒り、姚淶は書を岑猛から万金を得て書を書いたと虚偽の申し立てを行った。姚鏌は恐れ、岑猛討伐の上疏を行い、認められた。


姚鏌は八万の大討伐軍を田州に送った。

同時に、岑猛の妻、すなわち瓦氏夫人が岑猛に愛されておらず、瓦氏夫人の父岑璋が怒っているという噂を聞きつけ、謀略を企てる。

その謀略の内容は『明史紀事本末』に結構記されているのだけど、小説で詳しく書くつもりなので、ここでは省いておく。概略だけ記せば、岑璋が暗躍して、岑猛の次男邦彦が戦死し、また、八万の大軍を前にして田州府城を脱し帰順に逃げ込んだ岑猛も、岑璋によって毒殺される。

1526年の事件である。瓦氏夫人は20代なかばを過ぎたばかりで未亡人となってしまったのだった。

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2015年12月04日

瓦氏夫人 (3)

瓦氏夫人と岑猛との結婚がいつか、各種資料を読んでも確定することはできない。

ただ、おそらく我々の感覚からいえばかなり早く、十二歳頃だったのではないか。

チワン族の結婚習俗は、正月など年中行事の際に冠笄(男二十歳、女十五歳)に達した男女が山野などで対歌(恋歌のかけあい)をおこない意にかなう相手をさだめ、相思相愛となれば贈りものを交換して夫婦となることを本人同士で約束をする。つまり明代のチワン族は若い男女がみずから相手を選ぶ自由恋愛によって、女性の場合十五、十六歳頃に結婚したのだ。ただ、時代がくだり清末中期ころからは、漢族の影響をうけて、当事者ではなく親や親戚同士で結婚を決め、かつ婚期が早まり、七、八歳で婚約し十一、十二歳で結婚するようになっていった。

これらはチワン族の庶民の場合である。土官については、漢人やその文化に触れる機会が多く、また、領民に対して文明の明るさを誇示するためもあってか漢化が早くから進んだ。瓦氏夫人も三尺の童子のうちに婚約し、笄に達する前に結婚した可能性が高い。

『明史』には、岑猛の死後に起こった乱平定のために広西に赴任した王陽明の言として、「岑猛には四子があった。長男邦佐は妻の張氏の子、次男邦彦は妾の林氏の子、三男邦輔は外婢の子、四男邦相は妾の韋氏の子である」と記されている。

 この一文から花蓮には子がなかったことがわかる。

 王陽明は、正妻は張氏だったといっているのだが、漢族の婚姻習俗に則ればただひとつのはずの妻の座を張氏が占めていたのならば、他は妾か外婢≠セったということになる。しかし、花蓮の生家が土官であったことを考えると妻に劣る立場にあったとは考えにくく、ゆえに彼女は、子がなかったことから王陽明の言に現れなかったものの、張氏と同格だったのではないだろうか。

 四人の子の生年については記録が残っていない。ただ、次男岑(しん)邦彦(ほうげん)の子の岑芝(しんし)の生年は邦彦の没年である嘉靖五年(一五二六年)より前であることは確かなので、邦彦は正徳年間の初期(正徳元年は一五〇六年)に生まれたと思われる。

 花蓮の輿入れは正徳六年ころなので、次男邦彦は四、五歳の幼児で、長男の邦佐(ほうさ)は既に少年期にあったはずである。次男の年齢から考え三男も既に生まれており、四男邦相(ほうそう)も生まれていたか母韋氏の腹のなかにいたのではないか。

 だとすれば、花蓮は岑猛の妻妾のなかで最も遅く輿入れしてきたのではないかと想像できる。

 王陽明は「猛は林氏を嬖愛(へいあい)し張氏は愛を失った」とも述べている。多くの封建領主がそうであるように、岑猛の場合も最初の妻である張氏は政治的な理由で娶り、他方で林氏については好いて妾としたのではないだろうか。


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2015年11月14日

瓦氏夫人 (2)

瓦氏夫人の夫の岑猛について。

多少長いので項目建てすると。。。

(1) 岑𣿰による田州簒奪

岑猛の生まれは1489年らしい。瓦氏夫人の10歳上。

4歳の時、彼の健全な発育に悪影響を及ぼしたに違いない、ひどい事件が起きる。

父親の田州府土官岑溥が、猛の兄、猇により殺害されたのだ。

父岑溥ができの悪い長男・猇や次男ではなく、幼児の三男・猛にあとを継がせようとしたため猇は怒り、父殺しの挙にでたようだ。

岑猇は土目(地元の有力者。豪族)の黄驥と李蛮に殺された。

結局土官の地位は岑猛が継ぐのだが、あまりにも幼すぎた。田州に隣接する思恩州の土官で、かつ、猛のとおい親戚でもある岑𣿰に田州を乗っ取られてしまう。

そのあたりの経緯を明代の田汝成による『炎徼紀聞』は次のように記している。
弘治6年(1493年)9月、(父親の)愛を失った猇が右江で溥を弑した。土目の黄驥と李蛮が兵を発して岑猇を誅した。

まもなく黄驥と李蛮の関係に溝ができた。黄驥は岑猛を(両広総督府が置かれている)悟州に逃がした。総督は、岑猛が岑溥の官を世襲し田州を統治すべき、と上奏した。兵備副使の汪溥は李蛮が命に従わないことを懸念し、思恩知府(知府は府の長官のこと)の岑𣿰に兵をもって岑猛を護るよう命じた。岑𣿰は大軍で両江(右江と左江)を進んだ。黄驥は岑𣿰に賄賂を贈り、岑猛は黄驥に土地を分け与えることを強要された。(岑𣿰と黄驥)は共謀し、岑猛は従わざるを得なかった。岑猛は田州に入ったが、李蛮による妨害に遭い、黄驥は再び岑猛を思恩に逃がした。

弘治11年(1498年)、都御史のケ廷瓚は岑𣿰に岑猛を帰国させるよう命じたが、岑𣿰が従わなかったので、副総兵の欧磐と布政使の程廷珙に討伐軍をおこすよう要請した。岑𣿰はようやく岑猛を解放した。総督府は岑猛に田州を与えた。岑𣿰と岑猛の間に溝ができ、両者の和解は不可能だった。

同年7月、岑𣿰は田州に侵入し李蛮を殺害した。

弘治15年(1502年)10月。岑𣿰は田州を落とした。岑猛は逃走した。岑𣿰は一族の子の岑洪に田州を守備させた。

『明史 列伝第206』は思恩についての記述中で以下のように述べている。
弘治12年(弘治6年の間違いだろう)、田州土官の岑溥が子の猇に殺され、猇も死んだ。

次子(三男の間違いだろう)の猛は幼く、頭目の黄驥と李蛮は不仲だったので、総督府は岑𣿰に徴兵して猛を護るよう命じた。黄驥は岑𣿰に厚く賄賂を贈り、かつその娘を献じて、かつ土地を分与することを約束した。岑𣿰は兵を黄驥の側につけて、岑猛を田州に送った。しかし岑猛は(李蛮の妨害により田州に)入ることができず、岑𣿰のところに長くとどまらねばならなかった。

総兵諸官は岑𣿰をなだめて、岑猛に知府を世襲させようとした。岑𣿰は土地分与の実行を求めたが、得られず、怒って、泗城と東蘭の二州と盟約して田州を攻撃し、万人を殺害し、城郭は廃墟と化した。岑𣿰の兵二万は田州に拠って、竜州の印綬を劫掠し、元知府の趙源の妻である岑氏を得た。総兵官は田州に赴き調査を行った。黄驥は恐れて、岑𣿰のもとに匿われた。それに先立ち、岑𣿰は丹良庄に城を築き、兵千余を駐屯させ、水運を抑えて商業利益を独占した。官はこれをやめるように命じたが、(岑𣿰は)聞き入れなかった。官軍は田州からの帰還中途の機会に乗じてその城を破戒しようとしたが、岑𣿰の兵が拒み、官軍20余人を殺した。官軍はこれを破り、地元兵9人を捕らえた。総兵や巡按(御史)等の官は岑𣿰の罪を問うよう請願したが、参政の武清は岑𣿰より賄賂を受けて、枉げてこれを擁護した。

岑𣿰の従弟の業は幼少のころから宦官として京师に上がり、大理寺副三司に任じられている。総兵は、岑業を説諭に赴かせる勅命を願ったが、兵部は、岑𣿰は極悪であり岑業は諭の責を果たせないので、岑𣿰を招いて軍門のもとに至らせるよう総兵と巡按に勅命し、朝廷の威徳によって説諭し、その悪行の罪を問い、侵略地、劫掠した印綬、官おと私人の財物を返還させ、もって許すべき、とした。総督のケ廷瓚は「岑𣿰は数度の慰撫に服しませんでした。官軍と地元兵それぞれを編成することをお許しください。(岑𣿰を)捕らえて審問し、もし兵を集めて反抗するようなら、この機会に討伐し、田州土官の岑猛に一部を治めさせ、辺疆を鎮めます」と上奏した。

弘治16年(1503年)、総督の潘蕃は「岑𣿰は僭越にも謀叛をおこしたので、兵をもって討伐すべきです。岑𣿰の従弟の業は山東布政司参議として内閣で勅書事務に就いており、機密に触れる地位にあるので、秘密漏洩の恐れがあります」と上奏した。吏部が(岑業を)異動させようとしたが、岑業は休職を請願して去った。

弘治17年(1504年)、岑𣿰は上林、武缘等の県を劫掠し、死者の数は数えられないほどだった。また田州を攻め破った。岑猛は身ひとつで逃げ、その家族50人が掠された。


田州陥落の年は資料によりばらつきがあり特定が困難だが、最も遅くて1504年であり、つまりその時岑猛はまだ15歳、もしくはそれにも満たなかった。


(2) 岑𣿰討伐
弘治18年(1505年)、明朝は岑𣿰討伐を実行する。

『明武宗実録 巻2』によれば、
思恩府土官の岑濬が乱をおこし、これを平定した。

岑氏は思恩を世襲し、濬の代に至って府の政治をほしいままにした。不法に兵をおこし糧食を貯えて、万の人を殺戮し、田州を攻めた。府を治める土官の岑猛は城を棄てて遁走した。官吏は何度もこれを宥め諭したが、増長するばかりだった。

両広総督左都御史の潘蕃と太監の韋経、総兵官の毛鋭等は討伐を請い上奏し、両広の漢達官の軍、左右両江の土目の兵および湖広官の軍あわせて108000余で、6方から攻めた。副総兵毛倫と右参政王璘は慶遠から、右参将王震と左参政王臣、湖広都指揮官缨は柳州から、左参将楊玉と監事丁隆は武縁荒田から、都指揮金堂と兵備副使姜绾は上林から(那学通感?)、都指揮何清と右参議・玺は丹良から、都指揮李铭と泗城州土舍岑接の兵は工堯から、それぞれの道をとり、共同して要塞を攻めた。賊は兵を分けて険要の地に拠って戦った。わが軍は勇を奮って前進し、断崖を登って進入した。濬の勢いは収縮し、旧城へ逃げ込んだ。諸軍は合同してこれを囲み、その外城を破り、内城に肉薄しこれを激しく攻めた。濬は死に、城中の者によりその首が軍門に献じられた。続けて思恩も平定された。斬首は約4790人、捕らえた者は男女約800人だった。思恩府の印二つと向武州の印一つを得た。兵が入ってから撤兵まで一ヶ月を越えなかった。

戦勝を聞き、帝は蕃らの功を認め、詔書を下して労った。勝者それぞれの昇格が慣例どおり上奏された。その後、広西右布政の馮鎬が赴任した。上述の事件の前に、徴発された土兵が任地への往復の道で所構わず殺戮略奪を行い、その害は岑濬よりも悪いほどだった。法に反するものはこれを罰するという法度を明示し、および、以後土兵を安易に徴発することを上奏することがないよう兵部に望む。



(3) 岑𣿰の乱の戦後処理
岑𣿰の乱平定後の処理について、『明武宗実録 巻四』は次のように記している。
兵部は討議し、両広巡撫等の官は上奏を行った。「思恩府土官知府の岑𣿰は謀叛をおこしたため誅しました。再び(土官を)任用するべきではありません。今後、田州府土官知府の職を岑猛に世襲させることは非常によくありません。府の統治を失敗したのです。降格させるべきでしょう。岑猛を千戸に降格させ福建沿海衛に就かせ減給するのがよろしいでしょう……」

岑猛は田州土官に返り咲くことができなかったのだ。


(4) 田州府同知に
 岑猛は朝廷より福建省の沿岸警備の任に就くよう命じられたが、それを拒否し田州に居座って、新任の田州知府の田州府入りを妨害した。そして、宦官の劉瑾に対して賄賂を贈り、田州への復職を強く請願した。

多額の賄賂が効いて、先の発令は覆され、岑猛は田州府同知に任じられた。同知とは知府に次ぐ府の次官職である。

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2015年11月13日

瓦氏夫人 (1)

瓦氏夫人は中国では結構有名だけれども日本ではほとんど知られていないようなので、物語の執筆の一方で、瓦氏夫人がいかなる人物だったのか、その概略をここにぼちぼち書いていこうと思う。

瓦氏夫人の生年は、その没年と享年から逆算すると1499年か(1496年とか1497年とか書いてあるものも散見されるけれども、確定はできない)。

出生地は広西鎮安府帰順州。現在の広西チワン族自治区南寧市の西200キロメートルほどのところ(↓このあたり)。


父親は帰順州土官の岑璋という人。土官というのは漢民族以外の集団の頭目のことで、明朝の信任が必要だけれども、原則世襲される。瓦氏夫人は帰順州の自治を代々任されている家に生まれた。

瓦氏夫人の幼名は「花」だったようだ。つまり、姓名は「岑花」。それがなにゆえ「瓦氏夫人」と呼ばれるようになったかというと、彼女は岑猛という隣の府の土官に嫁ぐのだけれども、これは同じ姓の男女の結婚を許さない漢族にとっては忌むべきこと。そのため、のちに明朝の役人が上奏文で彼女について触れたい時に「岑猛の妻、岑花」と書くのは都合が悪く、チワン族の方言で花と同音の瓦(花も瓦もvaと発音されるらしい)の文字を使うことにして「岑猛の妻、瓦氏」と書いたからのようだ。

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2015年11月09日

瓦氏夫人について書くぞ

――倭冦について書こう!
と思い立ったのはたしか昨年初。しかし倭冦というくくりは広大過ぎてどうにも扱いきれず、ずいぶんと書きはしたのだけど(もう50万字くらい書いたかな)、まとまらなくて苦しんでいた。もう少しテーマを絞らなければダメたと思い、あれこれ探して、ようやく「これでいけそうだ」と思ったのが「瓦氏夫人」。

倭冦の猛威に震えあがる明軍の中で孤軍奮闘し連戦連勝したチワン族の女性の話。500年前の話であり、少数民族であり、かつ女性であることなどから資料をいくら読んでもわからないことも少なくなかったのだけど(今日は、チワン族の富裕層は「一夫多妻制」なのか「一夫一妻多妾制」なのかを調べるのに悪戦苦闘した)、資料の行間を読んで、小説の特権である想像を加えてなんとかプロットを終えた。明日から書き始めるぞ!

おそらく数十万字程度だと思うけど、調査に相当の時間をとられてしまうので書き上がるのに半年はかかるかな(当時の資料に句読点がついていないのがなんともつらい)。
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2015年02月27日

外灘(バンド)歴コラ

アングル内のほとんどのビルが現存しているので意味がないような気もしたのだけれども、女神像が建つ姿はいまは見られないので、歴コレの最終回(のつもり)として外灘の風景を。

僕の本の中では頻繁に外灘の景色が出てくる。

中でも『上海エイレーネー』では主人公の趙靄若が女神像=ニーケーを好きで、ほぼ全ての章で靄若とニーケーとの会話がある。

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元画像があまりはっきりしていなかったので拡大表示には堪えず。。。
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2015年02月22日

上海競馬場、グランド・シアター、静安寺路

再びFBのこちらのスレッドで教えてもらった画像で再びアイコラならぬ歴コラをつくってみた。

中央を貫く道路は静安路(現南京西路)。左側は上海競馬場。「GRAND」の文字は大光明電影院(グランドシアター)。

この場所は拙著「カレンシー・ウォー」で出てくる。

主人公柳場賢がカジノでアメリカ人の中華民国金融顧問A.N.ヤングにボロ負けして借金をつくってしまったシーン。支払うカネが足りないと言う柳場に対してA.N.ヤングが言った。
「その差額分として、ちょっとこれからあるところに付き合ってもらえないか」
「あるところ、ってどこだ」
「それを訊かずについてくるというのも利子分ということで」
 わけのわからない提案をしてくる男の言葉の意味を考えるのが次第に面倒になってきた。
「いいだろう。好きにしろ」
 柳場はそう言って、先に出口に向かって歩き始めた。

 男の黒塗りのパッカードは静安寺(バブリング・ウェル)路(現南京西路)を西に向かった。
 柳場は車窓をうしろへ流れていく商店のショウ・ウインドウの灯りを見ていた。
 車に乗ってから男と全く言葉を交わしていない。
 社交的ではない柳場でも、素性を全く知らない相手と車の後部座席で並んでいることには少々気まずさを感じる。
 柳場は男に尋ねた。
「アンタ。アメリカ人なんだろ」
 男は自分の横の窓のほうを見たままで何も答えない。
「なんだよ。愛想のない男だな。せめて名前ぐらい言ったらどうなんだい」
 やはり男は黙ったままである。男の視線の先は競馬場の敷地である。柳場の側とは違って光がなく、見つめるべきものは何もない。
「やれやれ。最悪の夜だな」
 柳場はそう呟いて視線を車窓に戻した。
 静安寺路が緩やかに右に曲がってすぐのところで車は停止した。
「なんだよ。ここかよ」
 車を降りると、目の前には仙楽斯(シロス)のきらびやかな光があった。仙楽斯は上海の不動産王、エリス・ヴィクター・サッスーンの資金で開業した上海一の高級ナイト・クラブである。

つまり柳場はA.N.ヤングの車に乗せられて写真の道を手前から奥に向かって進んだ。そして、写真の奥の方で右に折れたところで車を降りた(残念ながらこの写真には大光明電影院に隠れてシロスは写っていない)。

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2015年02月20日

上海劃船倶楽部(ボートクラブ)

上海の蘇州河畔にかつて「劃船倶楽部(ボートクラブ)」があった。下の写真は当時の白黒写真にちょっと色を加えてみたもの。

上海ノース・ステーション』では、悪者二人が悪い相談をしているシーンの密談場所として、この写真の右側(ボートクラブから蘇州河を挟んだ北蘇州路上)に設定した。

以下は該当部分の一部抜粋。
 田中隆吉は横殴りの雨の中、上海北蘇州路の歩道を早足で歩いている。
 すぐ左側を流れる蘇州河は水位が上がり、河水がいまにも道路に溢れ出してきそうだ。この雨の中で船を動かすものはいないようで、川面には多数の小船が繫留され、上流の方角から吹き下ろしてくる風に吹かれて木の葉のように大きく揺れている。
 前方左手に劃船倶楽部が雨のベールに隠れておぼろげに見えてきた。一時間ほど前に許清より連絡があり、劃船倶楽部から蘇州河を隔ててちょうど正面の対岸で会おうと言ってきた。田中は、許清がそのような場所を待ち合わせ場所に指定したことを腹立たしく思っていた。わかりやすい場所でありながらも人通りが少ないので密会場所として選んだのだろうが、雨を避けて待つことができる商店の軒先も街路樹も一切ない。もしも許清が自分に遅れて待ち合わせ場所に現れるようなことがあれば、何も言わずに首を絞めてやろうと心に決めた。


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上海北站フォトギャラリー

上海ノース・ステーション」読者のご参考に、上海北站の画像を集めてみた。

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オリジナルの駅舎を外側から撮ったもの。美しい!(もともと白黒画像だったものに色をつけてみた)

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それが日中戦争で日本軍の空爆を受けて無残な姿に。この変わり果てた姿で1987年まで使用された。

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爆撃を受けた直後のものだけど、プラットホームと奥の駅舎の位置関係がよくわかるので。いつもここを宋子文と重光葵が連れ立って歩き駅出口へ向かった。

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上海北站はターミナル駅であり、複線の線路が駅に近づくとどんどん枝分かれしていって、駅舎の前でそれらの線路がどん詰まりになるようになっていた。それは現在もそのまま残っており、宝山路站の窓から見ることができる。

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駅舎内のカフェの写真。

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駅舎内のサービス・オフィスの写真。これも爆撃直後のもの。

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2015年02月18日

「上海ノース・ステーション」出来!

『上海ノース・ステーション』(電子版)リリースしました!

1931年7月23日に発生した宋子文暗殺未遂事件をもとにした短編歴史ミステリー
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上海ノース・ステーション
電子書籍: 691 KB(紙の書籍で100ページ相当)
発行日: 2015年2月18日 初版
著 者: 大薗治夫
定 価: 356円
  アマゾンで購入


*あらすじ
1931年7月23日、上海北站(ノース・ステーション)で中国財政部長宋子文が南京発夜行列車から降車したところを襲撃された。刺客の数は十人を超え、宋子文の衛兵との間で激しい銃撃戦となったが、宋子文はかすり傷ひとつ負わず、しかし彼の私設秘書が三発もの銃弾を受けて死んだ。この列車には重光葵駐華代理公使も乗っていた。宋子文と重光が同じ列車に乗る時は決まって二人連れ立って列車から降りるのだが、この日に限って重光は一足先に降車し、そのために難を逃れた。この事件の裏には、複雑な事情と大きな陰謀が隠されていた。物語は霧に覆われた早朝の廬山での蒋介石暗殺未遂事件から始まる。

*目次
6月14日早朝   廬山
6月14日正午   廬山
6月15日     廬山
6月26日     南京 日本公使館
7月 5日     上海 ラファイエット路
7月12日     上海 虹口
7月14日     上海 四馬路
7月15日     南京 貢院街
7月22日午前11時 南京 財政部
7月22日午後4時  上海 蘇州河畔
7月22日午後8時  南京 太平路
7月22日午後10時 南京火車站
7月23日未明   昆山
7月23日朝晨   上海北站 燕克治
7月23日朝晨   上海北站 小島譲次
7月23日午前10時 上海 海関総税務司署
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