2016年02月17日

16世紀の東洋一の貿易港、双嶼

「双嶼」という地名は今はないけれども、五百年前には東洋一の貿易基地だった。

双嶼というのは特定の都市の名前ではなくエリアの名前であって、寧波に近い、六横島西岸のふたつの港と佛渡島の港、梅山島の港があわせて双嶼と呼ばれていたらしい。



昨今、邦人が中国軍事基地のそばにいったらつかまった、なんてニュースをちらほらみかけるのでちょっと怖かったのだけれども、小説の重要な舞台となるので、六横島にいってみた。

動画は、六横島西岸の港のうちのひとつであったであろう場所の背後の丘の上から撮影したもの。海峡の向こうに佛渡島が見えている。



海賊の巣窟でもあった双嶼は、1548年、浙江巡撫兼福州漳州泉州等海道提督軍務の朱紈の攻撃によりほろびた。

もしも朱紈が双嶼を攻めなかったとしたら。

おそらく双嶼は香港やマカオと同じような歴史をたどり、香港、マカオにまさるとも劣らない貿易都市として現代にいたっていたに違いない。ひょっとすれば上海は存在せず、中国最大の経済都市は双嶼という名だったかもしれない。

しかし実際には、六横島西岸南側の港だっただろう場所については、なんともさびれた寒村になっている(北側は造船場になっている)。そこまでいくのも結構大変だった。ミニバスが走っているけど本数が少なくて使えない。白タクに乗ったらぼったくられた。。。

朱紈の双嶼攻略について、
詳しくは→

posted by osono at 00:07 | 華東(蘇州、南京、杭州等)

2015年04月03日

遣明船が八か月居座った嶴山



1547年5月4日。4隻の遣明船が五島の奈留島を出帆した。当初は順風に乗って順調な航海と思われたが、同月9日より雲行きが怪しくなり10日に暴風雨に巻き込まれた。そして4隻のうちの3号船が他の船とはぐれてしまう。南に流された3号船は温州沖で海賊の襲撃に遭い、死者数は89人、実に乗員の約半数が命を落とした。

満身創痍の3号船は北上し、先に無事寧波沖に到着していた1、2、4号船と合流。6月1日、4隻揃って寧波の外港(現代の鎮海)に入った。ここから寧波へは甬江を遡って1日の距離なのだが、使節は先へ進むことを許されなかった。明国政府は「十年一貢の法度に反している」として入貢を認めなかったのだ(日本による直近の入京は1540年でそれから7年しかたっていなかった)。

遣明使節一行は定海で30日間粘ったが、ついには退去を命じられる。はるばる日本からやってきて、海賊に遭遇して多くの命を失い、それなのに上陸すら許されない。まったくもって踏んだり蹴ったり。

しかし、帰れと言われておとなしく帰るわけにもいかない一行は、貢期に至るまでどこかで待たせてほしいと駄駄をこねた。明国政府はやむを得ず、舟山群島の小島、嶴山にとどまることを許した。

現在、嶴山は舟山島と橋でつながっており簡単に行くことができる。定海のバスターミナルのすぐそばにあるバス停から30分に一度程度の頻度でバスが出ている。でも当時はむろん橋などなかったし、一行は、島から出ることができるのは米、塩、薪、酒などを舟山に調達しにいく時のみに限られていた。上の地図のとおり、周囲十キロ程しかない小さな小さな島だ。むろん娯楽はなにもない。そのうえ男ばっかしである。この逗留は結局八ヶ月にも及ぶことになるのだが、さぞ辛かったことだろう。

一行が寧波の地を踏むのは翌年3月9日。その後半年以上待たされ、10月6日に寧波を離れ北京に向かい、翌4月18日に北京に着いた。

五島奈留島を出立した時から数えれば実にほぼ2年が過ぎて、ようやく崇文門をくぐったのだった。

遣明船の嶴山滞在について、
詳しくは→

posted by osono at 23:55 | 華東(蘇州、南京、杭州等)

2015年03月22日

岑港と善妙

歴史の授業でも習ったように日本と寧波との関係は古く、そのため、寧波沖の舟山群島にも歴史好きには興味深い観光スポットが多数ある。

例えば岑港。


1557年(嘉靖36年)、豊後の大友宗麟(義鎮)は、明国の海禁政策(対外貿易等の禁止令)が緩められるとの情報を得て、寧波に貿易船を送った。

『明世宗実録』によれば、「義鎮亦喜即装巨舟 遣夷目善妙等四十余人随直等来貢市 以十月初至舟山之岑港泊焉」。つまり、大友宗麟は明と貿易ができると聞いて喜び勇んで巨船をつくった。派遣されたのは善妙ら40余人。倭寇の頭目で明政府の招撫に応じ明へ戻る決心をした王直とともに明へ渡り、1557年10月初に舟山に至り、岑港に泊した。

岑港は舟山島と里釣島との間の水道を臨む港。実際に自分の目で見てみると、舟山島と里釣島との距離はわずか100メートルほどしかなく、両島の間は曲がりくねった内陸河川のようだった。

「岑港倭凡五百余人於三十六年十一月随王直至求市易及王直被擒見官兵侵逼焼船」。つまり、王直の配下なども加わった500余人が岑港において交易を求めたが認められず、それどころか王直は捉えられてしまい、善妙らも海賊の一味とみなされて、船は官兵によって焼き払われてしまった。

ひどい話だ。貿易をしにきただけなのに。。。船が焼かれたということは積んできた荷もみな焼けてしまったのだろう。

海賊とみなされたのならば、捉えられればおそらく処刑される。一行は、逃げた。

善妙がなにものなのか、はっきりとはわからないのだけれども、遣明船の代表はたいてい僧侶が務めるので、おそらく彼も僧侶だろう。善妙という名はいかにも僧侶っぽいし。

しかしこの人、タダの坊主じゃない。

「海峰遂絶与倭目善妙等 列柵舟山阻岑港而守 官軍四面囲之」。つまり、王直配下の毛海峰と善妙は二手に分かれ、防御柵を並べ、官軍に完全包囲されながらも徹底抗戦の姿勢を示した。

わずか500人で、おそらくは数万人規模の官軍に抵抗し得たということから考えれば、彼らが立て籠もった場所はおそらくは岑港沖に南北に連なる3つの小島(北から富翅島、里釣山、外釣山)のうちのいずれかであり、そこでゲリラ戦を展開したのではなかろうか。外釣山の海岸では明代の鉄砲や大砲の弾丸等が出土しているが、それらはきっと、この時の戦いで遺されたものに違いない。

善妙らは半年以上に及ぶ籠城戦ののち、官軍の包囲を抜けて舟山島の北岸の柯梅に移る。そこで船の建造を行い、同年11月に複数の船が完成、同月13日に出帆した。名将兪大猷らの攻撃を受けたが、船団の末船が捉えられただけで、舟山脱出に成功する。

と、これだけでも驚きなのだけれども、まだ続きがある。

善妙らは東方、すなわち日本へは向かわなかった。南へ舵をとり福建省の嶼に至った。嶼は密貿易の拠点であり、日本で販売するための商品をそこで買い入れたのだろう。

でも、日本から持ってきたものは官軍にみな焼かれてしまったはずであり、いったいどうやって買い付けたのだろうか。岑港では船荷は失ったものの銀貨などは持ち出せたのか。それともひょっとしたら、舟山の柯梅あたりで掠奪をして、それを原資としたのか。。。
posted by osono at 17:50 | 華東(蘇州、南京、杭州等)

2013年02月27日

上海ー南京間高鉄にて

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巨大な南京南駅


虹橋駅へ行き、切符売り場で僕は確かに「いちばん早くに南京に着く列車を」と言った。

しかし切符売りのおばさんがくれたのは「いちばん早くに上海を出発する列車」の切符だった。

乗車したのは12:40発。杭州始発で上海虹橋駅を経由する列車である。

乗って車内アナウンスを聞いて「しまった」と声を出した。途中停車駅が6つもある。

ipadで検索してみると、僕の列車の南京までの所要時間は1時間54分。3分後に出る次の列車は32分前に、15分後に出る次の次の列車は25分前に、20分後に(虹橋駅ではなく)上海駅を出る列車は13分前、25分後に虹橋駅を出る列車は8分前に南京に到着する。

つまり僕は、東京から名古屋へ行く場合に例えるならば、「のぞみ」ではなく、「ひかり」ですらなく、「こだま」に乗ってしまったのだった。

あたまにきたので、帰りは奮発して「商務座」に乗っちゃうことにした(なぜ「あたまにくる」と、「高い席に乗る」ことにするのか、そのあたりは正しく説明し得る因果関係はない。ここでいう「ので」は、「Therefore」ではなく「所以」だ、と言えばなんとなく説明になっているだろうか)。

料金は429.5元。往路の一等軟座は219.5元だったので、約2倍。でも所要時間がほぼ同じ大宮−仙台間の「はやぶさ」は普通席(つまり中国の二等軟座相当)で10170円であることを考えれば安い。

座席は飛行機のシェル・フラットシートとほぼ同じ。寝て移動できるので、これなら上海−北京間にも使えそう。
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2013年02月25日

南京瞻園

出版前なので詳しく書けないが、次に出る予定の本に、国民政府の特務機関である軍事委員会調査統計局の幹部を同委員会の下っ端ながらも出世意欲が異常に強い男が訪ねてゆくシーンがある。

その幹部のオフィスの場所を参謀本部の中に設定したのだが、昨日、蒋介石の参謀本部があった南京の総統府を見にいってみて、その設定には無理があることに気づいた。
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総統府の巨大なゲート


総統府は巨大な首相官邸といった感じで、庭と儀典や会議の場所は広いが、オフィス用の建物が小さく、蒋介石とその側近が働ける程度しかスペースがない。

参謀本部があるので、同じく実質的な蒋介石直属の軍事機関である軍事委員会も同居していた可能性があると考えたのだけれども、参謀本部全てがそこに収まったかどうかも疑わしい建物で、多数の工作員を抱える軍事委員会が間借りできたとは到底思えなかった。

それで、いろいろ調べてみたら、軍事委員会調査統計局の本部は、南京随一の古典庭園である瞻園の中にあったということがわかった。なにしろ特務機関のことなのではっきりしないことが多いのだが、どうやら主任と、その下にあった三つの「処」のうち、第一処はこの瞻園にあり、第一処長などと仲の悪かった第二処は他の場所にあったようだ。規模が小さく、ランクも下がる第三処も外部にあったようだが、その場所は特定できなかった。本の中のシーンで男が訪ねてゆく先はこの第三処長なのだが、場所がわからないのと、ただの雑居ビルにいてもつまらないので、瞻園に小部屋をもっているという設定にすることにした(ノンフィクションでは許されなくても、このあたりは小説では自由なんである)。

瞻園。こちらは庭園というよりも忍者屋敷のようだった。建物も回廊も入り組んでおり、自分が今いる場所がすぐにわからなくなってしまう。外周には、三メートルはあろうかという、高くて真っ黒の重厚な塀が巡らされている。

暗殺や誘拐を繰り返した特務機関の巣窟にふさわしいと言ってもいい場所であった。
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この建物の一室を訪ねていったことにしようと思う


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2013年02月24日

南京国民党中央党部

南京の雲南北路が湖南路にぶち当たるところにある旧国民党中央党部。

1935年11月、党大会の前の記念撮影中にここで汪兆銘が狙撃され重症を負った。

政府の首相格である行政院長暗殺である。中国近代政治史上極めて重大な事件だが、これを契機にして大荒れに荒れた金融市場を鎮めるために、直後に通貨改革が断行されているので、経済史の観点からも重要な出来事であった。

ウェブで調べると、中国の観光情報サイトのいくつかに35元で参観できると書いてある。

で、さっそく行ってみたところ、現在そこは軍関連の施設となっており、衛兵が二人、銃を持って直立しゲートを守っている。敷地に入っていこうものならすぐに撃たれてしまいそうだ。

でもここは中国である。金儲けが美徳と考えられているのは軍隊においても同じはずなので、ひょっとしたら35元をとって小銭稼ぎをしているかもしれないと思い、衛兵におそるおそる「こ、ここ。参観できますか?」と訊いてみた。

衛兵にとって極めて意外な問であったようで、すぐには理解してもらえず、三度繰り返してようやく「できない」と憮然とした顔で言われた。

ずいぶん前から軍の施設となっているようなので、過去にも観光客に開放されたことはないに違いない。

複数サイトに入場 チケットの料金まで書いてあったのは、おそらく、どこかひとつのサイトがなんらか手違いで誤情報を載せ、他のサイトがそれをパクってそのまま掲載したのだろう。

なお、せめてもの救いと言うべきか、泊まったウェスティン・ホテルから旧中央党部の全景を見ることができた。それが下の写真。
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2008年12月06日

杭州湾跨海大橋

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寧波で用があり、上海への帰り道、本年5月に超鳴り物入りで開通した「杭州湾跨海大橋」を通った。


全長32km。世界で二番目に長い橋なそうな。



携帯で撮ったのでわかりにくくて恐縮だが、写真のとおり片側3車線の道が延々と続く。左側(西側)ははるかに陸地が見えるが、右側(東側)は見渡す限りの海。



写真をよく見るとわかるように、この橋、完全にまっすぐというわけではなく、緩やかなカーブがあり、またほとんどが海面すれすれだが、船を通すためだろう、盛り上がっているところがある(写真では、道が右に曲がり、しばらくしてからポコっと高くなっているところがあるのが分かる)。


この橋により上海‐寧波間が320km短縮されたのだそうだ。以前は車では6時間くらいかかったので飛行機を利用したものだが、今は車で3時間ほどとなり非常に便利になった。


17193_2.jpg橋の上海側は、ちまきで有名な嘉興のすぐそば。橋を渡り終えてすぐのところにサービスエリアがあり、そこでちまきを売っている。


2つ購入。なかなか美味。
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2007年06月11日

杭州にて「印象西湖」鑑賞

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蘇州から杭州へ。

目的は張芸謀氏による“山水実景演出”「印象西湖」を見ること。

印象西湖は百人を超えるダンサーと光に音響、湖水や湖岸の樹木などを組み合わせた山水画のような大掛かりなパフォーマンス。

詳細は特集に書きます
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2007年06月10日

蘇州「松鶴楼」

@蘇州。

まもなく蘇州サイトを作る予定であることと、上海・蘇州便利帳改訂版作成が始まったことから典型的蘇州料理店へ行こうと思い、老舗中の老舗、なんともめでたい名前の「松鶴楼」へ。

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蘇州一の繁華街「観前街」に位置する


パンフレットによれば……

「松鶴楼は清乾隆22年(1757年)創業で250年の歴史を有する。乾隆帝が江南に訪れた際「松鼠桂魚」を口にし絶賛したことから松鶴楼の名が天下に知れわたることとなった。松鶴楼は蘇州に現存するレストランでは最古の正統蘇州料理店である。「松鼠桂魚」「姑蘇鹵鴨」それぞれが「金鼎賞」及び「中華名小吃」の栄誉に輝いており、1997年には「国家特級酒家」及び「中華老字号」の称号を得た……」

パンフレットには「松鼠桂魚」と「姑蘇鹵鴨」の他に2つ、「清溜河蝦仁」と「雪花蟹斗」の写真が載っている。「姑蘇鹵鴨」は鴨の丸焼き。ちょっとグロテスクで手が出せない。「雪花蟹斗」は品切れだったので「松鼠桂魚」と「清溜河蝦仁」を試した(グルメではない(どころか味盲との評判の)僕は料理についての評は控えます)。

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甘い!見た目がちょっとね


誤って頼んでしまったブロッコリーがうまかった。ブロッコリーは本来僕のカリフラワーに次ぐきらいな食べ物なのに、である。

■松鶴楼
住所:江蘇省蘇州市太監弄72号
電話:0512-67700688

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僕の食わず嫌いを直してくれたかも


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2007年06月09日

蘇州シャングリラ

5380.jpg<コンパクトフラッシュメモリー用のPCカードを持ってくるのを忘れたためカメラから写真を取り出せず。写真は後で載せます>

蘇州での宿泊は2006年オープンと新しい蘇州シャングリラホテル。蘇州市街地の西、高新技術産業開発区内にある。日本料理店やスナックも集中する繁華街、淮海路には歩いてもいける距離だ。

5380_2.jpg最近泊まったシャングリラ系列のホテル、常州トレーダーズ富都ホテル、広州シャングリラに比べると部屋はひとまわり小さいように思う。ウェブに表示されている面積は常州は40平米、広州は42平米で蘇州は広州と同じ42平米だけれども、なぜか小さい。バスルームが大きいわけでもないので(むしろ小さいくらい)、表示がおかしいとしか思えない。

ロビーや廊下などはちょっと飾り気がなさ過ぎるかな。ジムや屋内プールなどがあるスポーツクラブも内装がシンプル。別にこれでも十分なんだけど、広州シャングリラに比べるとやはり見劣りする。

5380_3.jpgもちろん最高級ホテルではあるのは間違いないし、十分満足いくのだけど、シャングリラってシェラトンより一ランク上の、ウェスティンと同等クラスだと思っていただけに少し残念かな。

レストランは和食のサントリーと中華の香宮。サントリーではおいしそうに入れてくれるビールがうれしい。週末のみの180元ですきやきまたはしゃぶしゃぶ食べ放題なんて企画もある。

僕が今回利用したのは週末のみ680元/泊(サービス別)という特別プラン。上海から週末に気軽にやってくるのにお手ごろな価格だ。

■蘇州シャングリラホテル
 蘇州香格里拉大酒店
 Shangri-La Hotel Suzhou

 電話:0512-68080168
 住所:江蘇省蘇州市高新技術産業開発区塔園路168号
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