2016年03月04日

インバウンド関連で感じたこと

今回(2月28日〜3月2日)の北海道滞在にて、“インバウンド”関連で感じたこと。

◆韓国人がけっこう多い。中国人と同じくらいなんじゃないかな。いや、中国人は見ればだいたいわかるけど、韓国人はわからないことが多い。だとすると、中国人より韓国人のほうが多かったのかもしれない。マスコミによって「中国人客が押し寄せている」というイメージを植えつけられているけれども、オーストラリア人もけっこう多いし、120円台に達した円安によって外国からの旅行客一般が増えた、というのが正しい表現なのかもしれない。ということは、いまの110円台前半やさらなる円高の状況下では、インバウンドは霧散してしまうのかもしれない。

◆中国人のなかでは、広東語を話す人(=おそらくは香港人)の比率がずいぶんと減ったように思う。2年前に北海道にきたとき(3歳4か月の初スキー)は中国人のうちの半分くらいが広東語人だったのに、今回みかけたのは一組だけだった。

◆マナーのいい人が多い。報道では爆買い中国人ツアー客のマナーの悪さが喧伝されているけれども、僕の見かけた中国人たちはみなマナーがよかった。エレベーターを降りるときには先を譲り、日本語で「ありがとう」とか「すみません」とかを連発し、レストランや廊下では音量を抑えて会話をする(日本人の酔っ払いのほうがよっぽどうるさい)。屋内プールと温泉が隣接しており、僕が息子とともに水着のままでプールから温泉に移動しようとしていたら、中国人のおとうさんが彼の息子の肩に手をおきながらホテルスタッフに「水着のままで温泉へ行っていいですか」と訊いていた。なんだか恥ずかしかった。中国国内でも、旅行者の日本でのマナーの悪さが採り上げられているようなので、そのおかげなのかな。
posted by osono at 19:46 | 中国社会・外交など

2014年05月11日

日本女性は美人で男性はスケベ?中国人の誤解と日中関係

中国でしばらく生活すると、中国人は日本人についていくつかの誤解をしていることに気づく。

例えば、日本人は美人という誤解。これはおそらくテレビ・ドラマやアダルト・ビデオなどの影響だろう。多くの中国人は映像でしか日本人を見たことがなく、映像に出てくる女性はたいてい美人なので、日本人の女性はおしなべて美しいという誤解がうまれたのではなかろうか。
(ただひょっとしたら、中国人に比べて日本人の女性は常に化粧や服装に気合いが入っている、ということが日本人は美人と思われる理由なのかもしれない。下地のみをいうのではなく化粧や服装も含めて美人を論じるのであれば「誤解」ではなく「事実」といっていいのかもしれない)。

それから、日本人の男はスケベという誤解。これは上海など日本人が多数居住する都市に限られる誤解なのかもしれない。その誤解を生じた理由のひとつは巷に溢れる日本語表記のネオンだろう。夜、上海の中心部を車で移動していると日本語をよく見かける。そのほとんどは飲食店の看板だ。上海の全飲食店に対する日本飲食店の比率は実際には「よく見かける」というほどには多いはずはないのだけれども、日本飲食店はある程度集中して立地いることや漢字の国でひらがなやカタカナ表記があれば目立つことなどから上海の街には日本飲食店が相当に多いという印象となる。そしてその飲食店のうち、相当数が「食」ではなく「飲」であり、そのそばにはたいてい日本語の看板のかかる(風俗営業の)マッサージ店があったりするものだから、いかにも日本人は夜な夜な小姐が陪座する店(若い女性が隣に座る店)に通い、マッサージ店へはしごするかのように思えてしまう。インターネットなどで日本のグラビア・アイドルの画像やアダルト動画が氾濫していることや、時折売春が行われている店で多数の日本人が一斉に逮捕されたなんて報道がなされることも、日本人がスケベだと思われる要因なのだろう。日本人夫婦のセックス頻度は諸国家の中でダントツに低いという統計がある、なんて話をしても中国人はまるで信じない。

それから例えば、日本は隙あらば中国を侵略しようとしているという誤解もある。むろん我々日本人は日本という国にそのような実力はおろか考えも微塵もないことを知っており、「なにをばかなことを」と思ってしまうが、中国人はそうではない。「日本人はスケベ」とは逆に、この誤解は沿海部よりは内陸部、都市部より農村部で一層みられるようだ。日本人は、日本は敗戦によって生まれ変わった、と思っている。アジアの東の端っこに住んでいることと日本語を使っていることと天皇がいることは変わっていないけれども、憲法は変わり社会の仕組みが変わり人々の考え方も変わったので、「大日本帝国」と「日本国」はまったく別な国だと考えている。しかし中国人は、相変わらずアジアの東の端っこに住んでいて日本語を使っていて万世一系の天皇を戴いている日本人は昔もいまも大して変わってはいないだろうと考える。抗日テレビ・ドラマが日々流されていることの影響もあって、農村を中心に少なくない中国人が日本は強力な軍事力を有しており、中国大陸に乗り込んできて、残忍な殺戮を再び行うかもしれない、という誤解を抱いている。首相の靖国神社参拝は、日本政府や日本国の戦前から現代にいたるまでの連続性の証左に映るし、尖閣諸島問題は、どちらの国に領有権があるかの争いではなく、日本の侵略に対する中国の領土防衛の問題と映る。

さらに例えば、日本も中国と同じだろうという誤解。中国においては報道が統制され、自由な報道は許されず、時にねじ曲げられた報道がなされていることは中国人自身も知っている。その目的が政府による民衆の統制であることもわかっている。人を騙す人は他人も自分を騙すと思っているし、うそをつく人は他人も自分にうそをついていると思いがちだが、同様に、自分の国の状況は他国でも大差ないだろうと思い込んでしまうものだ。一部の中国人は日本でも偏向報道が横行し、日本政府は民衆を統制しようと謀っていると考える。日本政府が強行的なことをいえば日本人全てが同様に考えていると思ってしまう。現代日本には多様な意見があって、各自それを述べる自由があって、なかなかひとつの意見には偏りにくく、そもそも多くの民衆は政治や外交に無関心だということは理解されていない。

日本には美人ばかりがいると誤解されてもなんら問題はないし、日本人男性はスケベだと思われても、中国人女性と結婚している日本人には多少の障害となるかもしれないけれども、その他の人には実害はほとんどない。しかし上に例示したうちの後者ふたつの誤解はできれば解消しておきたい。その方策のひとつは、既によくいわれていることで陳腐な意見と思われることを恐れずいえば、より多くの中国人に日本に触れてもらうことだろうか。日本への観光を推進し、アニメやドラマなど日本文化の輸出をこれまで以上に積極的に行う、などなど。それから、誤解を増長するような行為・言動を慎む、ということ。靖国神社参拝は中国では日本が軍国主義を継承しているのだと思われるし、尖閣諸島問題について「領土問題は存在せず」と切り捨ててしまえば日本は中国を不当に侵略しようとしている、と思われてしまう。靖国神社参拝については「国外からどう見られようが関係ない」という声がすぐにも飛んできそうでもあり、この稿でどうすべきとはいわないけれども、尖閣諸島問題については「領土問題は存在せず」の看板はおろし国際司法裁判所へ提訴し、80年以上前の満州国問題とは全く異質の問題なのだという姿勢を示したほうがいいように思うのだが、どうだろう。






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2014年04月24日

商船三井船差し押さえについて。日本の外交上の失策?

商船三井船差し押さえの件。どうも事実関係がよくわからないのだけれども、ウェブで拾うことができる情報と若干の想像を加えてまとめてみると概ね以下の感じだろうか(あくまで「概ね」である。ウェブ上の情報は往々にして間違いが潜んでいるし、僕の想像も入っているから全てが事実どおりとはいえない)。

1) 商船三井の前身の一社である大同海運が1936年6月と10月に中威輪船公司から6000トン級の順豊号および5000トン級の新太平号を1年契約で借りた(定期傭船契約)。契約は1937年に更新された。

2) 1938年8月、2隻は1938年3月に制定されたばかりの国家総動員法に基づいて海軍に戦時徴用された。

3) 1938年12月21日に「新太平」が座礁し沈没。この沈没に対しては大同海運に対して保険金が支払われた。

4) 契約は1938年中に(もしくは1939年にかけて)満了。1939年、中威輪船公司側が傭船料不払いがあるので大同海運に問い合わせたところ「戦時徴用されてしまった」と通知があった。

5) 1944年12月25日に「順豊」が連合国に雷撃され沈没。

6)  戦後、中威輪船公司オーナーの陳順通氏が2隻の沈没を知る。

7) 1964年、陳順通氏の相続人が日本政府を相手として東京簡易裁判所に調停を申し立てたが1967年不調に終わる。

8) 1970年、同じく東京地方裁判所に損害賠償請求を提訴したが東京地裁は1974年に消滅時効の成立を理由として棄却。原告は東京高等裁判所に控訴するが1976年に取り下げて、東京地裁の判決が確定。

9) 1987年初に中国の民法における時効制度が通知され、1988年末が損害賠償の提訴の期限となったため陳順通氏の相続人が1988年末に大同海運の後継会社であるナビックスライン(株)(現在の商船三井)を被告とし上海海事法院に定期傭船契約上の債務不履行等による損害賠償請求を提起。ちなみにこのときの原告側弁護団は多国籍からなる総勢56人の中国民事訴訟史上最大のものだったらしい。

2007年12月7日上海海事法院で約29.2億円の損害賠償を命ずる一審判決が出された。被告側は同判決を不服として上海市高級人民法院(第二審)に控訴。2010年8月6日、上海市高級人民法院より第一審判決を支持する第二審判決が出された。被告側は最高人民法院に本件の再審申立てを行ったが2011年1月17日に同申立てを却下する旨の決定を受けた。

これを受け、商船三井は原告側に示談交渉を働きかけていたが、2014年4月、突然所有する所有する鉄鉱石運搬船「BAOSTEEL EMOTION」の差し押さえの執行を受けた。そのため同月23日、金利分などを加えて供託金40億円を支払った。翌24日、差し押さえは解除された。

さて、本事案を考えるにあたってひとつのキィーとなるのが、本事案は日中共同声明にいう「戦争賠償」の守備範囲となるのかどうかということ。日中共同声明の

中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する

という文章は曖昧さがあるけれども、サンフランシスコ講話条約第14条(b)の

連合国は、連合国のすべての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとつた行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する

という文言を参照にして広めに解釈すれば「中国とその国民は日本国とその国民に対して戦争賠償の請求をしない」という意味だということもでき、よって本事案が戦争賠償に当たるのならば賠償の必要はなし、という結論を導きだすこともできる。

では「戦争賠償」に当たるのかどうか。

・契約は対日本国ではなく、民間企業同士の商業契約
・契約の締結は日中戦争すら始まっていない1936年
・日本政府と商船三井(の前身の会社)との間では形式上とはいえ損害賠償がなされているはずで(戦時補償特別措置法によって戦時補償が全額なされていると思われる(同時にその額と同額の賦課がなされているので政府は1円も支払わないのだけれど))、であるならば徴用開始後も契約の流れは 中威輪船公司代表者 ←→ 大同海運 ←→ 日本政府 のままであり、中威輪船公司代表者の契約相手は大同海運であると思われること
・中国の報道によれば徴用される前の傭船料にも滞納があり、また「新太平洋」沈没については保険が支払われそれを大同海運が着服してしまったという。もしそれらが本当ならば、これらは戦争とは関係のない債務の不履行(「新太平洋」沈没は戦時徴用後のようだけれども、保険が支払われているのであれば戦争で沈んだわけではないことになる)であること、

などから考えると、これは戦争賠償の問題というよりも、商業契約上の紛争と考えたほうが妥当なように思える。

また、戦時徴用後もなにがしかの傭船料が支払われていたのではないかと思われ(これはまったくの想像。中国側報道には、逆に大同海運が海軍に対して傭船料を払っていたと書かれていた。ちょっと信じ難いけれども、何らかの理由で2隻が拿捕され没収され、それがそのまま貸し出された、なんてことはむちゃくちゃな時代だからあるのかもしれない)、それなのに中威輪船公司に傭船料が払われていなかったのであれば、ここでも大同海運は着服していたことになる。戦時徴用前の傭船料不払い、戦時徴用開始後の傭船料着服、保険金の着服はいずれもなかった可能性もあるので断言すべきではないけれども、諸々大同海運に不当なところはあったような感じがする。

40億円を支払わされた商船三井は気の毒ではあるけれども、他の戦時徴用船については自分でカネを出して買った船が戻ってこなかったのだから民間企業が広く戦争の負担をさせられたのに、2隻についてはカネを払って買っていないのだから大同海運に負担はなかったわけで、大同海運は得をした、ということもできる。そのツケの伝票が70年後にまわってきたと考えてもいいだろう。

そう考えてきて思うのは、菅官房長官の発言は勇み足だったのではないか、ということ。

菅官房長官の「日中共同声明に示された国交正常化の精神を根底から揺るがしかねない」発言は外交的失策というべきかもしれない。その発言の意図が、世間一般がそう捉えたように「戦争賠償の請求を放棄することを約束しているのに、それに反する」ということであれば、上記のとおりそれは的外れと思われるし、日本はなんでもかんでも「戦争賠償だから相手にしない」といって済まそうとする国だと国際的に思われる結果となってしまったかもしれない。むしろ官房長官は「あれは民間同士の事件だから」といって流しておいたほうが日本は合理的法治の国だと思われ、他の訴訟を有利に進めることができたように思う。かつ、あのような発言をしてしまったために中国国民に「戦争賠償であっても国対国の損害賠償請求でなければ(どちらか一方が国でなく国民であれば)中国国内裁判で勝訴すれば賠償を獲得し得る」と思わせる結果となり、他の訴訟に悪影響を及ぼす可能性もでてきたのではないか。

次から次へと訴訟が立ち上がるのが怖くて反射的に「戦争賠償の請求を放棄することを約束しているのに、それに反する」といってしまったのかもしれないが、1989年以降については中国においても時効が成立するので同様の訴訟が新規に起こされることはないはず。

菅官房長官発言が、もし単に「日中友好を損なうものだ」という意味だとしたら、子供が友達のオモチャを壊して相手の子供が怒ったときに、壊したほうの子供が「仲良くしなくっちゃいけないって先生がいっていたじゃないか」と反論したようなもの。






posted by osono at 20:21 | Comment(0) | 中国社会・外交など

2014年04月03日

「大事」か「小事」か〜靖国とか竹島とか、ちょっと尖閣も

前回の「尖閣問題。いにしえの賢人はこう語った」の中で、紀元前300年に圓の国に寄った遊説家、孟無子が圓国の王、安晋に対して「見小利則大事不成」と語った、という話を書いた。これはすなわち、小さな利を見ていると大事なことを成し遂げられない、といった意味だが、これと同主旨の言葉を中国古典の中に見つけるのは簡単だ。

例えば論語ならば、小不忍則乱大謀(小さなことを我慢できないと、大きな仕事をし損じる)、

韓非子ならば、顧小利則大利之残也(小さな利を気にしていると、大きな利を失ってしまう)、

他にも淮南子の、遂獣者目不見太山(獲物を追うことに熱中していると、自分が巨大な泰山にいることを忘れてしまう)、

史記の、大行不顧細謹大礼不辞小譲(大きな行いをするためには細かいつつしみなど気にすることはない。大きな礼の前では小さな謙譲など問題にならない)、

などなど。ことわざで言えば「木を見て森を見ず」がそれに当たるが、いにしえの賢人たちがみなそう思うほどに、人が成功するための、もしくは失敗しないための真理なのだろう。また、賢人たちがそろってそれを言わねばならないと思うほどに、人は容易く小事にとらわれて大事を見失うということなのだろう。

ただ一方で、論語に記された数々の細々とした隣のジイサンの説教のような教訓は、「大事」か「小事」かのいずれかに分類するならばほとんど全てが小事に属するように思えるし、韓非子ならば、千丈之堤以螻蟻之穴潰(大きな堤防もオケラやアリの空ける穴が元になって壊れてしまう)と、「顧小利則大利之残也」とはほとんど逆の意味の言葉もあったりして、僕のような愚人は混乱してしまうのだが、賢人たちは「常に『大事』を考えよ。とはいえ『小事』を軽んじていいといっているわけではないぞ。勘違いするんじゃないぞ。そこの愚か者よ」と、おそらく言いたいのだ。
***

今からほんの80年ほど前。この賢人たちの教えに背いて大事を忘れ、小事に拘ったばかりに国を破滅に導いてしまった人たちがいた。

北京郊外の盧溝橋での小競り合いを契機に始まった日中戦争。その開戦から約半年後の1938年1月15日に、のちの日本の命運を決定づけることとなる「政府大本営連絡会議」が行われた。議題はトラウトマン和平工作を打ち切るかどうか。トラウトマン和平工作は歴史の教科書にも出てくるようだが復習すると、1937年11月に日本側より中国側に対してトラウトマン駐華ドイツ大使を通じて呈示した和平条件について、蒋介石を中心とする中国国民党政権は12月初旬に受諾を概ね決めるのだが、それを日本側に伝える前に南京攻城戦が始まってしまう。南京陥落を受けて日本側は和平条件をつり上げた。そこには、華北への自治政権設置、揚子江流域を含む広い範囲への非武装地帯の拡充、戦費賠償など、中国側が容易に受け入れることができない過酷な条件が加えられていた。中国側からの回答は当然に遅延し、そのため、日本政府は交渉打ち切りの是非を決める会議を開いた。

(このあたりのことは拙著「上海エイレーネー」に詳しいのであわせて読んでいただけると嬉しい)

会議の出席者の中で、中国側の回答を待つべし、と主張したのは多田駿参謀次長のみであった。多田参謀次長は、日本の軍隊はソ連および共産主義の南下に備えなければならず、中国との戦いは本来対ソ連・対共産主義のために温存すべき国力の浪費以外のなにものでもない、と考えていた。ために、中国との戦争は一刻も早く終わらせなくてはならないと強く思っていた。

同じ陸軍の中でも杉山元陸相は交渉打ち切りを主張し、蒋介石が屈服するまで作戦を進めるべきとした。

廣田弘毅外相も交渉打ち切りを主張する。廣田外相は、永い外交生活の経験に照らせば中国側に誠意がないことは明らかだとして、中国側の回答を待つべきだとする多田参謀次長に対して「外務大臣を信用しないのか」と詰め寄った。つまり廣田外相は、中国側は外交儀礼にもとるから交渉を打ち切るべき、との考えを採った。

米内光政海相は「参謀本部が外務大臣を信用しないのならば、それは政府不信任と同じことだ」と述べた。これはすなわち、内閣総辞職となるがそれでもいいのか、と多田参謀次長を脅したのだ。米内海相は、非常時に内閣が崩壊すれば一時的な混乱が生じるので、それを避ける政治的配慮をすべき、と考えたのである。

近衛文麿首相は議論の行く末を見守っていたが、優柔不断の看板を掲げる彼は最後には多数派、すなわち交渉打ち切り派についてしまう。この時、世論は南京陥落で沸き立ち対中国強硬論一色であったため、軟弱な姿勢を示すと間もなく開催される帝国議会を乗り切れず、へたをすれば国民が暴発しかねないという考えも近衛首相の頭にあったようだ。

この各人の主張を「大事」と「小事」に分類するとどうなるか。為政者の大事を「国民の幸福のために行うこと」と定義するとすれば、ソ連と共産主義の南下に備えるために対中国の戦争は止めなければならない、という主張は大事であろう。「ソ連と共産主義の南下に備える」というのが戦略的に正しいかどうかは別として、そこでは直接的に国民の利益が考えられている。

杉山陸相は多田参謀次長と正反対の主張をしたが、交渉打ち切り、対中戦争の継続が国民にとっての直接的利益であると考えたのだろうから、大事を唱えたと言ってもいい(ただ同時におそらく、自分の意見が採用されて始まった戦争を中途半端な形でやめられないとか、陸軍省の権益拡大のためとか、そういう官僚的な発想もあったに違いないけれども)。

一方で、「外交儀礼上無礼だから」とか、「内閣総辞職を避けるため」とか、「帝国議会を乗り切るため」とかいうのはいずれも小事といっていい。

多田参謀次長は必死に自説を唱えたが多勢に無勢であった。陸軍内の意見が割れているのだから首相や外相が多田参謀次長側につけばおそらく違う結果になったのに、首相、外相は中国の返事を待つべきではないと唱え、結局会議は交渉打ち切りに決し、翌日、近衛首相はあの悪名高い「国民政府ヲ対手トセズ」声明、すなわち蒋介石との和平交渉を今後行わないとする宣言を行ってしまう。

日本はこの時に破滅への道を歩み始めた。交渉を継続していれば最終的には中国側は日本側条件を受け入れていた可能性が高く、日中戦争はすぐに終結したに違いない。

大事が小事に負けてしまったのだ。その結果は国の破滅だった。小事にとらわれた人たちの罪はとてつもなく大きい。
***

為政者にとっての大事が国民の幸福であるとして、幸福にはいろいろな要素があるけれども、中でも為政者に期待されるのは国民の身体と財産に対する危険を可能な限り小さくして、健康と富の増強をはかることだろう。それ以外のことは全て小事に分類されるといっていい。小事も疎かにしてはいけないけれども、大事と矛盾する小事は捨て去らなければいけない。

現代のこの国や彼の国の為政者にあてはめてみるとどうだろう。当の本人に訊けば「全てが大事なことなのだ」と胸を張っていうだろう。でも、その「大事」は「大切」という意味であって、上で述べたような大事とは意味が違っている。確かにそれらはことごとく大切なことだろうけれども、大事と小事の対比においては、多くのことが大事ではなく小事であるようにみえる。

例えば靖国問題。訪問するほうにとっても、それを批判するほうにとっても、ものすごく大切なことなのだろう。「だろう」というだけでも叱られそうなくらいに双方ともに大切なことだと考えている。でも、少なくとも「国民の身体と財産に対する危険を可能な限り小さくして、健康と富の増強をはかる」という観点からは、訪問するほうにとっても、それを批判するほうにとっても大事とはいえない。

例えば竹島問題。何週間か前の日経の「風見鶏」に書いてあったのだが、「竹島の日」記念式典で自民党の竹下亘氏が行った「平和的な解決以外に私たちは道を持っていない」等の発言について、日経紙上で紹介したいと考えた同紙編集委員が、兄の竹下登元首相が右翼の攻撃に悩まされたこともあるので心配して、紹介していいかどうか確認を行ったところ、竹下亘氏は「住めるわけではないでしょ」と答えたのだそうだ。つまりは竹島の領有自体は(いずれの国にとっても)小事だということだ。周辺海域で操業する漁民の利益がより大事であり、さらなる大事はこの問題で両国が衝突し結果として両国民の健康や富が損なわれることのないようにすること、であろう。

例えば尖閣問題。こちらは周辺海域に埋蔵するといわれる資源の問題が絡むので多少ややこしくなるが、領土問題は存在しないとしているほうにとっても、核心的利益に属する問題だとしているほうにとっても、もしメンツの問題なのだとすればそれは小事とすらいえないほどに小さいことだし、外交儀礼上の問題や国民感情についても、トラウトマン和平工作打ち切りの事例を思い浮かべれば明らかなように、大事をなすべき為政者にとっては小事である。

この国も彼の国も、為政者には大事、すなわち「国民の身体と財産に対する危険を可能な限り小さくして、健康と富の増強をはかること」のみを強く意識し小事にはとらわれないことを心から願うのだけれども、政治家にとっては票、もしくは国民からの人気も大事であることを考えると、近衛首相のような過ち、すなわち国民の声を聞くがために判断を誤るということは容易に起こりうると思っておかなくてはいけない。

だとすると、国際関係における諸問題を解決する鍵は、我々国民ひとりひとりの手に握られているというべきなのかもしれない。我々国民ひとりひとりが、メンツとか相手が無礼だとか、過去の恨みとか、そういうことは(たとえそれがどんなに大切なことであっても)小事であるとしっかりと認識する。最近、特に尖閣諸島の国有化以降、小事にとらわれている人がめっきり増えたようだが、この国の歴史における失敗を思い出し、彼の国のいにしえの賢人の声を聞くことにより、大事を目指し小事にとらわれないようにする。それがいま我々がなすべきことではあるまいか。





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2014年03月26日

尖閣問題。いにしえの賢人はこう語った

日中関係関連の出来事があるたびに、中国はいったいなにを考えているのだろう、と思うことが少なくないけれども、それを理解するためのひとつの鍵は中国がもつ「大国意識」だと思う。

西暦1500年前後。すなわち日本は戦国時代まっただ中で中国は明朝約280年のほぼ真ん中のころ。日明貿易における日本から中国への輸出品といえば太刀、槍、ラッコの皮、胡椒、木材、銅、扇子、銚子などで、輸入品といえば生糸、北絹(絹布の一種)、緞子、金鑼(打楽器の一種)、銅銭、書籍などだった。おおまかにいえば、日本は、長く戦乱の世にあるために技術水準が高い軍事産品と扇子などの工芸特産品を除けば、一次産品を輸出し、中国からは二次産品を輸入していた。日本は発展途上国型、中国は先進国型の貿易を行っていたのである。中国からの輸入品のうち銅銭は日本経済の根幹である通貨として使用され、書籍は文化の基礎となったのだから、日本は文明をも輸入していたといえる。当時の中国は経済的にも文明的にも圧倒的な大国、日本は軍事大国ではあっても経済的、文明的には全くの小国であった。

歴史は下って、日清戦争で日本が勝利し、その後に多数の中国人留学生が日本で学び、日中戦争期では日本が中国沿海都市を占領、戦後は日本が超特急列車に乗って経済発展を成し遂げた一方で中国は共産主義という普通列車もしくは進行方向が逆の列車に乗ってしまったがために経済力の差がついた。つまり、軍事、経済、文明と分野を区切ってみれば、いずれかの分野において日本が優勢となることが過去に少なからずあった。

しかしながら、日清戦争以前の歴史があまりに長く、かつ、いつの時代であっても日本に比べて国土は広大で人口も膨大であるためだろう、中国が大国、日本が小国という意識は、少なくとも中国の側では明朝の時代からほとんど変わっていないようにみえる。中国では、差別的な意味合いをもって「小日本」という言葉がよく使われるが、「小日本」は「大中国」と対になっており、その字のとおり、「日本は所詮小国で中国はなんだかんだいっても大国だ」という意味だ。

日本が中国をみているほどには中国は日本をみていない、という人がいる。少なくとも昨今のきな臭い日中関係に陥る前で、かつ中国経済が今次の景気減速に入るまえのころはそのとおりだった。日本企業は挙って中国市場を熱い目で見つめていた。一方で中国にとっての日本はアメリカや欧州に並ぶ、投資をしてくる諸外国のうちのひとつに過ぎなかった。鉄砲伝来以降にヨーロッパとの貿易が始まるまで、日本にとって中国は最大の貿易相手国だったが、一方で中国にとっての対日貿易は、琉球、朝鮮、オイラート、ポルトガル、イスラム諸国との貿易に並ぶか、それ以下のものに過ぎなかった。自分の国が他の国に比べて小国であると考えることには抵抗感があるけれども、いまも昔も日本にとって中国は極めて大事な国で、中国にとっての日本は諸外国のうちのひとつに過ぎないと考えると、やはり中国は大国で日本は小国なのだという気にもなってくる。

自ら自国は大国であると考える中国が目指すところはなにかといえば、それは覇権国になるということかもしれない。春秋時代においては漢民族諸侯の中で覇者が生まれ、秦始皇帝以降に統一王朝が形成されるようになってからは、周辺諸国との関係において中国は覇者となった。日清戦争以降約120年間、中国は覇権を失っているが、かの国の悠久の歴史からすればごく短期間のことであり、日本のGDPを抜いたいま、再び覇者となることを目指していると考えるのが自然のようにも思える。

さて……

時は紀元前300年。諸国遊説の旅をする孟無子(もうむす)が圓の国に寄ったとき、その高名を聞いた圓の王、安晋は孟無子を招き教えを請うた。

安晋王は北面して孟無子に向かい排手して、隣国である華の国との関係について訊いた。華の生産力はさきごろ圓を凌駕し、覇を唱えるのも時の問題にもみえる。華が圓に加える圧力は日々増しており、安晋王にとって華との関係は、「安晋之混政」と呼ばれる経済政策の成功に次いで重要な政治課題であった。

「先生。覇道についてお教えください。覇者の条件とはなんでしょうか」

「斉の桓公は宰相の管仲を重用して内政改革を断行し、経済力を高め軍事力を充実させました。その名声が諸侯に伝わり、諸侯の間の関係を調整し、または諸侯を防衛する役目を担うようになりました。晋の文公も同様です。そうして斉桓・晋文は周王に代わり天下を経略しました。すなわち覇者の条件とは、会盟を主催して諸国間の諸規則を定め、諸国間に起こる紛争を仲裁し、諸国を夷狄の侵入から護り経済的危急に陥った国があればそれを救済すること、ということができましょう」

「華は覇者たろうとしているのでしょうか」

「いまはまだ早いけれども、いずれはそうなりたいと思っている。そう考えていいでしょう」

「先生は、覇者は諸国間で起こる紛争を仲裁するとおっしゃいました。しかし華は争いごとを仕掛けてきているようにみえます。わが国と華との間の海に海鳥しか住まない島があります。われわれはその島を万閣と呼んでいます。圓は万閣はわが国固有の領土であると説いているのですが、華はそれを聞き入れようとしません」

「王がいくら法や判例などに拠って理をもって説得をしようとしても、華はそれに納得することは決してないでしょう。覇者にとっては夷狄により定められた法に従うことは本意ではないのです。覇者は、自らが主催する会盟の場で定められた規則で諸事を決するべきだと考えます」

安晋王は眉を顰めている。王の苦悩は深い。数日前に人民に人気の芝居、「富士可笑」に出演した時にみせた微笑みはどこにもない。

「先生。華は軍備を拡張しています。万閣周辺にも出没しています。剣を交えることにならないかと心配でなりません」

「覇者の使命のひとつは圧倒的な武力を背景にして諸国間の紛争を仲裁することです。すなわち紛争の解決手段として武力を使うことはあり得るといわざるを得ないでしょう」

安晋王は深いため息をついた。

孟無子は構わず続けた。

「ただし、覇者は周辺諸国から領土を切り取ろうという野心をもちません。覇者と周辺諸国とをつなぐものは、徳が上策、文明の威光や経済力が中策、武力が下策であり、下策である武力をもって周辺諸国を侵せば、もはや覇を唱えることはかなわなくなります。よって華が真の覇者たらんとしているのであれば領土拡張を目的とした侵略をすることはないと考えてもいいでしょう」

天空に陽のあるうちは春の陽気に包まれたが、日没とともに季節は冬に戻った。部屋の中に微かに吹き込む冷たい風がろうそくの炎を揺らしている。

孟無子はろうそくの一本を手にとりさらに続けた。

「華には中華の思想があります。中華というのは光のようなものです。光源を中心として光の届くところが中華です。中華の範囲に明確な境があるわけではありません。光源から遠ざかるにつれてだんだんと暗くなっていくのです。中華の思想のもとでは国境が明確である必要はありません。はっきりと線で示すことができる国境は夷狄の考え方といってもいいでしょう。中華の思想においては、国境が曖昧であっても、そこで争いさえ起こっていなければ、放っておけばいいと考えるものなのです。紛争の芽を摘むために国境を引くことはあっても、国境を引くことが紛争の芽となることは望まないのです」

「しかし先生。華は万閣を『核心的利益』だといって、積極的に争おうとしています」

「王は華が争いごとを仕掛けてきていると考えておられますが、華のほうでは圓が争いの火種をつくっているとみています。例えば、前の野佳王の行った万閣の国有化であり、例えば王の泰国神社参拝です。華の考えでは、圓が争いを仕掛けてくるならば、それを核心的利益と称して対抗しなくてはならないと考えているのです。ですから圓としては、火種となることの一切を避けるようにして、両国間に争いごとが起こる可能性を極力小さくするよう努めるべきでしょう」

「泰国神社参拝は信念があってのことです」

と、安晋王が口調を強くして反論した。

「『見小利則大事不成』。ご存知でしょう」

「孔子の弟子の子夏が地方長官に任命された際に師に政治について尋ね、それに対して孔子が答えたという言葉ですね。小さな利を見ていると大事なことを成し遂げられないものだ、という」

「そうです。王にとっての「大事」は人民の幸福です。幸福にはいろいろな要素がありますが、中でも王に期待されるのは人民の身体と財産に対する危険を可能な限り小さくして、健康と富を増進することです。それ以外のことは全て小事です。いま王は信念があるとおしゃいましたが、その信念は王の大事の前では小事ではありませんか」

「しかし―−」

と、安晋王は反論しかけたが、途中で口を噤んだ。

「王に申し上げましょう。圓が領土問題は存在しないという論を掲げ続けて諸事を無理に進めようとすれば、その先には、紛争を処理する唯一の手段と考える華による武力侵攻が待っていると考えておかねばなりません。それを望まないのであれば、まずは領土問題は存在しないという旗を降ろす必要があります。蘭の国におかれている裁判所へ提訴をするのもいいでしょう。華は提訴に応じることはないでしょうけれども、それにより圓は話し合いで解決しようと努めているという姿勢を示すのです。そのうえで華との間で会盟を開くのです。会盟を開いても国境を定めることはできませんが、中華の思想にのっとれば国境は曖昧なままでもいいので華もそれに同意するでしょう。国境は曖昧なままにするという前提のもとで、島や周辺海域の利用方法、船舶の航行などについての諸規則をひとつずつつくりあげていくのです」

安晋王は孟無子に向かって排手した。

無言であった。

しかし、その表情はわずかに晴れやかになったようであった。






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2014年01月10日

日中戦争期の和平工作

上海エイレーネー」=上海の平和の女神。すなわち本作は、上海を舞台とした平和の物語。主人公は鄭蘋如をモデルとした女性だが、「和平」は本作のもうひとりの主人公といってもいい。

以下はウェブに掲載した「本作をお読みいただく前に」の文章から引用。
日中戦争は、残忍な戦闘も行われる一方で、和平に向けた活動が積極的になされ、それも同時に複数の工作が進行するという、特異とも言える紛争でした。軍人、外交官、民間人など各方面の人々が参画する和平活動は、やがて蒋介石との直接和平を目指す派と、汪兆銘による政権を立ち上げその政権と和平を実現し戦争を終結させようとする派とが激しく対立するようになります。本作ではその対立を中心に据えつつ、和平仲介のために南京−上海間を移動中の英国大使が謎の航空機に襲撃された事件や、暗殺者に狙われる汪兆銘を民間人に扮した陸軍大佐がハノイにまで救出に向かったことなど、歴史的ドラマをも交えて和平活動を描いていきます。

すなわち本作では「蒋介石との直接和平を目指す派」と「汪兆銘による政権を立ち上げその政権と和平を実現し戦争を終結させようとする派」とについてかなりのページを割いて描いているのだけれども、日中戦争期の和平工作については、興味深い話が他にもいっぱいある。

以下は、本作の巻末に掲載されている「モデルとした人々のこと」からの引用。
1940年を迎える頃には、首相周辺や参謀本部のみならず陸軍省、現地軍もが一様に、膠着状態に陥っている日中戦争をなんとか終わらせたいと望むようになるのだが、同時に、自らが骨抜きにしてしまった汪国民政府には大きな期待はできないというのが共通の認識だった。そのため日本政府は、汪国民政府の承認を引き延ばしつつ、蒋介石との直接交渉を模索し続けた。

そんな折に出てきたのが宋子良(宋慶齢、宋子文、宋美齢等の実弟)を通じた和平交渉、いわゆる桐工作である。陸軍はこの工作に大きな期待を寄せた。満洲承認問題や華北駐兵問題などでは難航したものの、1940年3月に香港で行われた予備会談では和平条件に日中双方がほぼ同意するに至った。中国側代表は蒋介石等の承諾を得るために合意内容を重慶に持ち帰ったが、同月末に汪国民政府が成立し、その頃から中国側の態度が消極的となる。結局同年9月、本工作は実質的に終了する。なお、宋子良と名乗った人物は、実は戴笠の直系の有力幹部だったことが後に判明する。

桐工作と入れ替わるように、1940年後半には浙江財閥の重鎮で交通銀行董事長の銭永銘を通じた工作が進められた。11月17日、蒋介石の特使より、全面撤兵と汪国民政府の非承認を約束するのならば和平交渉に入ってもいいとの打診があり、それを受け、22日に開かれた四相会議では、中国側が速やかに正式な代表を任命すれば30日に予定している汪国民政府承認を延期するとの決定がなされた。この日本の回答が香港に届いたのが24日で、27日にその回答を持って杜月笙が飛行機で重慶に向かった。中国側は29日に正式代表の任命を知らせてきたのだが、時すでに遅かった。その前日の28日、日本政府は予定どおり30日に汪国民政府承認を行うことを正式決定してしまったのである。

この短い文章からは伝わりにくいかもしれないが、中国側要人のニセモノが出てきて、日本側がそれに疑心を抱いたり、和平のために奔走する登場人物の一角に上海マフィアの大ボス杜月笙がいたり、一秒一刻を争うスリリングな展開があって最後にはたったの一日遅れたために失敗に終わってしまうことなど、小説になりそうな話が盛りだくさんなのだ。

ただ、すくなくとも当面は、これをテーマにして書くつもりはない。

日中戦争期の物語をふたつ書き終えて、いったんこの時期の話からは卒業しようと思っている。僕の頭はいま日中戦争期から400年ほど遡った頃の蘇州にある。

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2010年06月28日

サッカー外交

G20で韓国のイ・ミョンバク大統領が菅首相に「パラグアイに勝ってほしい」と言ったそうだが、ここ広州でもワールドカップの話題を頻繁にもちかけられる。

タクシーに乗ればまずワールドカップの話題である。こちらが日本人だとわかると、どの程度本気なのかは知らないけれど、
「明日は試合だな。日本はきっと勝つ」
とか、
「日本はアジアの期待を背負っている。がんばれ」
とか、言われる。

話半分に聞いているが、こう何度も言われると、この4年で対日感情が少々改善したのでは、なんて思ってしまう。

車のブランドとして頭に入っているので覚えやすかったのかもしれないが、いまや中国でもBenTain(本田)は有名人。たまたまNHKで本田選手の特集を見ていたので彼らの知らない新情報を与えて話題を盛り上げることができるが、1年前だったら、外交努力もむなしく、そこで会話は終わってしまっていたに違いない。
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2009年04月13日

太陽系で最強の中国美女軍団

金本の1試合3ホームランとか楽天の連勝とかに人々の話題は移り、WBCのことなど口の端にも上がらなくなった昨今だが、陳腐になる恐れをもちながらも、今回は敢えてそれをネタにする。

WBC = World Beauty in China。全日本チームは世界最強の称号を勝ち取ったが、次なる対戦相手は太陽系最強ともいわれる中国美女チーム。


1番イチローに対するのは、超弩級美女、西施。容姿が美しいのは当然のこと、呉に贈られるまでの3年間みっちりと、宮廷での言葉づかいから閨房でのふるまい・発声法に至るまで仕込まれた彼女は、今や国を越え世界で広く知られる美女界のスーパースターである。いつもひそみにシワを寄せているが、最近それが、胃潰瘍の痛みに耐えるためであることが判明した。

2番、虞美人。劉邦に追い詰められ四面楚歌の窮状にある項羽の足手まといにならじと自らの命を絶つ。時に犠牲を強いられる2番バッターに最適である。

3番、夏姫。春秋時代の鄭出身の彼女は、一生で何人もの貴人に溺愛され「三たび王后となり、七たび夫人」になったなんて話もある。特に晩年は、若さもなく、何人もの男性を知り、その上その男性たちがことごとく不幸になったにも関わらず、である。当時の王侯貴族は美女なんて見飽きるほどだったことを考えると一層すごい。苦手なコースも球種も全くない万能バッターとは正しく夏姫のことだ。

日本代表チームと同様「不動の4番」と言える人がいないのだけど、これもあまりに駒が揃いすぎているためか。そんな中、今回敢えて褒似を4番に据える。幽王は、周王朝を彼女の笑顔と引き換えにしてしまった。なにしろ笑わなくても王が惚れ込むほどの超美人だったわけで、そんな子がほほ笑んだら桁外れにキャワイイのである。彼女の瞳で見つめられたら岩隅だって震え上がりボールが高めに浮いてくるのは間違いない。

5番は、中国美女列伝ではあまり挙げられることはないが、昨今「レッドクリフ」の影響で株が暴騰中の小僑にしよう。ただ、一人では他の美女に比べてやや役不足な感があるので、ここは「江東の二喬」すなわち姉の大僑とセットということにしちゃおう。ちなみにこの二人、それぞれ三国時代の呉の孫策とその軍師周瑜の嫁さんだが、もともとは二人にさらわれ無理やり嫁にさせられたという経歴。現代なら大問題だぞ。こらトニー・レオン!


6番、妲妃。酒池肉林で有名な商(殷)の紂王の妃で、商を滅亡に導く傾国として褒似と並び賞されるが、なにしろ古代のことだから伝説の域であり、メジャーに行って最近の成績がよくわからないし、WBCでも、3年前の大会も含めて、あまり目立たない福留とイメージが重なる。

7番、王昭君。漢から匈奴に贈られ、異国の地で根を張り活躍する様は、惜しまれつつヤクルトを去り、タンバベイ・デビルレイズをワールドシリーズへ導いた岩村のようである。

8番、楊貴妃。城島の位置づけのように、時には4番も打てるのだが、僕は、“豊満”より“苗条”なほうが好きなので。。。なお楊貴妃については、本サイトで以前行った連載「長恨歌をよみながら朝も暮も美女との戯れを想う」をご覧いただきたい(有料情報です。恐縮です)。

9番。「環肥燕瘦」と、楊貴妃の対極のやせ形美女として称賛される漢代の趙飛燕。身のこなしが燕が舞うように美しかったという。すばやくも優雅にセカンドベースを陥れ、イチロー、じゃなかった西施の一打に期待をするのである。



う〜ん。こいつは強い。むちゃくちゃ強い。まさしくドリームチームである。先のサムライ日本など足元にも及ばぬ。

このチームに互角にわたりあえるチームははたしてあるのだろうか。ということで日本最強美女チームを編成してみた。くどくどした説明を省き並べてみると、
1番 相武紗季
2番 綾瀬はるか
3番 堀北真希
4番 深田恭子
5番 長澤まさみ
6番 石原さとみ
7番 多部未華子
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んんん?9人揃わん
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8番 新垣結衣
9番 戸田恵梨香

なんとかこれで9人。。。これはかなわん。(4番に違和感がある人もあろうが、沢尻エリカ怪我による帰国のため、急遽代表入りした)
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2009年03月09日

トラウマ

一週間に一度の更新にする、と宣言をし、あたためにあたためたネタがクソネタである。。。。。。




世間のどのくらいの人が何らかのトラウマを抱えて活きているのかは知らないけれども、僕にも一つだけトラウマがある。説明するのも忌々しい記憶なのだが。。。


上海外灘の中山東路と延安東路が交わるところに写真の建物がある。この建物の煙突のような部分に上がることができ、そこから外灘の夜景を撮ると非常にきれいだという話を聞き、夜7時頃に行ってみた。

正面入口は鍵が閉まっていた。どこか他に入口はないかと思い、建物をぐるりとまわってみた。建物の周りに幅1メートルほどの、道路側からも歩道側からも植木で隔絶され見えないエリアがあり、そのどこかに隠れた入口がないものかと考えた。


そうしたら。。。ああ、今ここに書くだけでも気分が悪くなってきた。。。建物の壁沿いに、正確に50センチメートルほどの間隔を空け干乾びたイモのようなものが転がっている。このサイズはどう見たって犬のものではない。どうやらココは、周辺の商店主たちのトイレと化しているようなのだ。



それからしばらくの間は、日に何度もこの光景を思い出してしまい、そのたびに吐き気をもよおした。しかし、失恋の悲しい記憶ですら時間とともに薄れていくものである。僕は耐えた。思い出すたびに他のことを考えるようにして、我慢した。人間の脳の偉大な“忘れる”という機能を信じひたすら時の経つのを待った。


あれから数年を経て、この記憶からはほぼ解放されたが、時々ふとしたきっかけで思い出してしまうことがある。一昨日、僕は仙霞路と古北路の交差点にあるHSBCでから太陽広場の方向へ歩いて行った。そして仙霞路と婁山関路の交差点を右に曲がろうとした時、壁際にそれは落ちていた。干乾びていた。長かった。


なぜこんな交通量の多い交差点に!


いや、そんなことはどうでもいい。これで僕はまた数日間、忌々しい記憶にとりつかれることになってしまったのだ。







クソ繋がりの話を続ける。


日本人と中国人とでは、少々排泄に対する感覚が違うようだ。男どうしの酒の席の話題のメインは、当然のこと、女の話だが、時々耳にするのが、なぜトイレのドアを閉めないのか、とか、シャワーを浴びていたらカーテン越しに女の子が便器に座っていた、とか、いたいけな少女たちが排泄の姿を見られることをあまり気にしない、という話。


まあ、アメリカのトイレの個室は足元と上部がオープンで、それに比べて日本のトイレは密閉されすぎているし、むしろ排泄の姿を恥ずかしく思う気持ちは、日本人が特殊なのかもしれないけれども。



昨日飲んだ某君から聞いた話。


ベッドルームからガラス越しにバスルームが見えるホテルの一室にて、きれいな女の子と、されこれから一戦、という時。先にベットに入り、ふとバスルームの方を見ると、女の子が便座の上に足をのせ、しゃがんで用を足していたのだそうだ。それも、前向きに!


そういえば僕が子供の頃。TOTOの便器には必ず「洋式便器の使い方」なる説明が貼ってあった。小さい頃から和式(もしくは中式)のトイレを使って育ってきた人が、大人になってから出会う洋式便器の使い方が間違っていてもおかしくはない。いや、正しい使い方は知っていて、それでも敢えて昔から慣れ親しんだ方法で用を足してしまうのかもしれない。


しかしながらこの話。中国駐在者は聞き流してはいけない。若い女の子がこういう使い方をしているのである。この広い中国、かなりの人が同じ使い方をしているに違いない。


公共のトイレで、わざわざ靴を脱いで便座に乗っかっているとも思えない。どんなガイドブックにも書いていないことだけど、公共のトイレの便座はまず相当に汚いと思ったほうがよさそうである。
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2008年02月02日

餃子

なんと午後1時起床。昨晩寝たのが午前1時頃だから、なんと12時間寝てしまった。やっぱり先週は雪がらみで相当に疲れがたまっていたみたい。


昨今の餃子問題、ちょっと気になるんだけど。。。


報道はこぞって「中国製」という言葉を強調。日本中「中国製食品は危ない」という雰囲気になっている。


でももしこれが日本国内の製品だったら、まず批判されるのは製造者。そして管理監督に問題があることが判明した時点で監督官庁が批難されるという順番。


今回の餃子問題については、国外からの輸入品なのだから、まずは日本の輸入業者、次に日本の輸入または食品関連監督官庁が批難されるべきなんだと思う。


新聞やアナウンサーは「中国製冷凍餃子」っていうけれども、製造業者名・輸入者名を飛ばしてしまうのはいかがなものでしょう。


万が一にも日本の水際以降の流通過程で殺虫剤が混入したとしたら。。。報道している人は何にも責任をとらないだろうけれども。
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