2014年09月15日

武漢上海間はCRH(高速鉄道)で その2

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旧漢口駅。現在は全く使用されていないようだ

2012年末に書いた「武漢上海間はCRH(高速鉄道)で」は検索エンジンでよくひっかかるようなので、調子に乗って続編を書いておこうと思う。

再び武漢から上海までCRHに乗ったのだが、切符を買うまでにちょっと試行錯誤した。

前回この路線に乗った時、5時間をわずかに切って走る列車があり、それを利用した。いまは5時間ぴったりで走る列車があって、他の列車のほとんどは6時間以上かかるので、なるべくならその5時間の列車を利用したいと考えた。ただ、上海到着が18時35分とちょっと遅い。その日19時過ぎから上海で大事な打ち合わせがあり、間に合うだろうけれども、万が一を考えるともう少し時間の余裕がほしい。

しかし、もっと早く上海に着く列車はみな6時間以上かかるうえに、商務座が連結されていない。となりの座席に座った、携帯の着信音がやたら大きく、イヤホンもせずにipadでビデオを見て、歯槽膿漏のにおいがきついおっさんと6時間もの間肘掛けの陣地争いをするなんて、僕にはとてもできない。

しょうがないから飛行機で帰るか、と考えていた時、ふと、「なんで上海まで所要5時間の列車と6時間超の列車があるのだろう。いくらなんでも差がありすぎないか」と思い、「そういえば、南京から上海の間は複々線だった。CRH専用線を走る列車と在来線を走る列車とがあって、そのため南京から上海への所要時間が列車によって大きく異なるのでは」と思い至った。

調べてみると武漢から南京までの所要時間はどの列車でも4時間弱程度であり大差なく、南京から上海間が、速い列車が1時間程度、遅い列車が2時間程度かかることがわかった。つまりおそらく、武漢から南京までは全列車在来線を時速150km程度で走り、南京上海間は、CRH専用線を時速300km程度で走るものと在来線を時速150km程度で走るものとがあるのだろう。

で、考えたのは、南京で乗り換えるという案。調べると、午前中に武漢を出て南京まで行く列車で商務座があるものがある(寧波行きの列車なので、武漢―上海間で検索した時には出てこなかった列車)。南京乗り継ぎで上海まで時速300kmで突っ走る列車に乗り換えればどうか。

結局そういう経路で切符を買った。そして9時に武漢を出て14時48分に上海に着いた。南京での乗り継ぎ時間が44分なので、列車に乗っていた時間は合計で5時間4分也。武漢南京間、南京上海間のいずれも商務座に乗ることができた。

なお、南京での乗り換え時間として40分以上みたが、15分程度でも十分のようだ。南京で列車を降りたあと、いったん駅の外に出てから再び駅の中に戻ってこなくてはならないと思っていたのだけれども、乗り継ぎの場合はホームから待合室へ直接行くことができる。





2014年09月14日

武漢の宋慶齢故居

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宋慶齢は1927年の前半をこの建物の二階で過ごした
宋子文について調べている時、The North American Newspaper Allianceの特派員として中国を訪れた作家Vincent Sheeanの次の文章に惹きつけられた。これはSheeanが1927年夏に宋慶齢へのインタビューを行った時の様子を描いたもの。和訳して引用すると……
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この扉から慶齢が現れたのだろう。
扉の向こうには廊下を隔てて慶齢の居室がある
財政部2階の明かりの消された応接室の端のドアが開き、黒いシルクの服をまとった、小柄で、はにかみ気味の中国女性が入ってきた。彼女の繊細で、か細い手のひとつにはレースのハンカチーフが、もうひとつの手には宋子文からの紹介状が握られている。彼女が声を発した時、私は飛び上がりそうになった。やわらかく、やさしく、思いのほかに甘い声だった。直射日光を避けるためにブラインドが閉められており、彼女がすぐそばに近づいてくるまで、その姿はおぼろげにしか見えなかった。彼女を見て私は当惑し、いったいこの女性は誰なのだろう、と思った。孫文夫人には私が知らない娘がいたのだろうか?この優雅に現れた、壊れそうで、臆病そうな女性が、世界で最も名高い女性革命家だとはなかなか信じることができなかった。
Vincent Sheean 「Personal History」P225〜P226より

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慶齢の寝室
宋三姉妹の若い頃の写真を見ると、どうみても慶齢が一番、かつ圧倒的にかわいい。長女の靄齢と次女の慶齢は仲が良くなかったという話がある。もしそれが事実ならば、その根本原因は靄齢の慶齢に対する嫉妬だったのではなかろうか。慶齢の夫は国父とも呼ばれる革命の英雄で、夫亡き後、慶齢は革命のシンボルとして中国国民全てに敬愛された。一方で靄齢の夫は国民党の首相格である行政院長も務めた孔祥煕だが、アメリカから中国の政治・経済・軍事情勢の調査のために派遣された特使が行ったルーズベルト大統領宛の報告で無能とはっきりと書かれてしまうような人物であった。加えてあの容姿の違いである。ハイスクール時代、慶齢は男子に相当にちやほやされたに違いない。他方で靄齢は……

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書斎

Sheeanが慶齢に会った財政部の建物は現存している。場所は武漢漢口の長江岸。

僕はSheeanの受けた感動を、宋子文の前半生について描く小説に採り入れたくて、2012年末にここを訪れた、が、改修中ということで中に入れなかった(それについては「重慶と武漢」に書いた)。2013年春にも行ってみた、が、未だ改修中だった。

そしてこのたび、ついに建物の中に入ることができた。「宋慶齢故居」として無料で一般公開されている。

Sheeanが慶齢に会見したと思われる部屋にも入ることができる。窓の少ない部屋で、外では晩夏の太陽が怒り狂っているのに、中はぼんやりと薄暗かった。人がめったに来ないので想像というタイムマシンに乗るのは難しくなかった。薄明かりの応接室のドアがゆっくりと開き、しなやかに現れた慶齢は、僕に向かって優しく微笑んだ。





2014年09月11日

廬山 その3

(その2からの続き)

フロントの横の部屋に閉じ籠ってまだ寝ていたフロント嬢を叩き起こし、パジャマ姿で寝癖髪の彼女からデポジットを取り返してチェックアウトしたのが7時半。

image.jpg宿の隣の「美廬别墅」が既にオープンしていたので入場した。美廬别墅は蒋介石・宋美齢夫妻の別荘。実際に使っていたという家具も置かれており、ふたりの語らう声が聞こえてきそうだった。ただし、この別荘を夫妻が入手したのは1933年頃のようなので、小説で描く1931年には蒋介石はここには滞在していなかったと考えるべきなのだろう。

そのあと巡回バスの東線に乗って「含鄱口」へ。

image.jpgロープウェイに乗るのに30元をとられ、さらに含鄱口に入るのに25元をとられた。昨日の石門澗でもそうだったし、その他人気のある観光スポットに入るところでいちいち入場料を徴収される。入山料を180元も払っているのに、それはやりすぎでは、と思うのだが、他国でのことだし批判してみてもはじまらない。ここでも急な階段を下り、帰りはのぼってこなければならない。段数は350段ほどだったので石門澗に比べればましだったけれども、僕の足には昨日の疲労が残っており、相当にしんどかった。
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歩いて下りていった先に現れる滝


image.jpg次に「五老峰」へ。文字通り五つの峰があって、それをひとつづつ巡っていく。すばらしかった。天を突く峰々と断崖絶壁、そこをはいあがってくる白い雲。この登山道は全長6km。昨日の石門澗と午前中の含鄱口で足が疲れ切っており、そんな距離を歩けるだろうかと、ものすごく不安だったのだけれども、絶景に背中を押されてなんとか無事に踏破した。

image.jpgなお、多くの観光客はここを訪れないらしい。実際、他に比べてここは人がかなり少なかった。どうしてだろう。石門澗も含鄱口も、そしてもうひとつの人気スポットである三畳泉もいずれもロープウェイなどで下り、さらに何百段もの階段を下っていったところに滝がある。言ってみればいずれも似たような感じなのに、それらはいずれも必見とされる。僕にとっては五老峰が一番だった。高いところ、高いところへ行きたいというのは人の本能のように思っていたけど間違いだろうか。せっかく高地に来ているのに標高が下がる方向へはあまり行きたくないと感じるのは僕だけなのだろうか。それとも、いくつもある日本人と中国人との間の小さな感性の違いのひとつなのだろうか。
五峰から四峰方向を望む。雲が生きているかのようだ


ついには杖を突いて歩く老婆にも抜かれる程に疲れてしまった。登山道から逸れて渓流岸に座り込み、清流に両足をつけて休憩した。足湯ならぬ足冷水では効果はないかとも思ったが、そのまま15分程じっとしていたら足がずいぶんと楽になった。その勢いで巡回バスの西線に乗り「錦綉谷」へ。崖に貼りつくように巡らされた1.5km程の遊歩道を歩く。
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錦綉谷。廬山西側の山々は東側に比べてやや曲線的


そして15時30分発の九江行きバスで下山。

そのあと、ホテルにたどり着くまでがまたキツかった。

足が痛くてちょっとした階段の上り下りでも苦行のよう。九江駅前の地下道を歩くとなぜか咳がではじめ、周りを歩いている人達もなぜか一様に咳をしているので、息を止めて地下道を駆け抜けた。駅の待合室はうるさくて、どこからともなく歯槽膿漏の臭いが漂ってきて、トイレの汚さに閉口した。とはいっても、汗を大量にかいたうえに昨日と同じTシャツを着ている僕も悪臭を発しており周囲の人が息を止めているのではないかと不安になった。CRHは混んでいて一等が取れず、隣席のおじさんの肘掛からはみでてくる肘と2時間格闘し続けなくてはならなかった。武漢站では地下鉄が終わっていたためかタクシー乗り場が長蛇の列で、タクシーに乗るのに30分かかった。

23時30分。ホテルにたどり着いた時は嬉しかった。五老峰のてっぺんに着いた時より嬉しかった。ホテル前のコンビニでビールを買って、バスタブに湯をはってゆっくりと湯につかり、ルームサービスのワンタン麺を食べて………あとは記憶がない。おそらく僕は融けた。





2014年09月10日

廬山 その2

(その1からの続き)

廬山山上の牯岭鎮に着いたのは13時頃。疲れていたが短い滞在を有効に使うためにすぐに観光に。巡回バスの「西線」に乗った。

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このような断崖が続く

「大天地」で下車し、「龍首崖」を経て、「石門澗」へ。景色がどうこうというのは各観光ガイドに譲り省略することとして、何はともあれ驚いたのはその高低差。下る、下る、そしてまた下る。45度程度の坂をひたすら下る。石で整備された階段なので歩きやすいのだけれども、途中で「あとでこれを登らねばならないのか」と気がついた。谷底からの帰りにいったい何段登るのかと数えてみたらなんと1400段強!超高層ビルの最上階から歩いて一階に行き、すぐに最上階に歩いて戻った、という感じ。汗でTシャツはスコールに遭ったみたいにずぶ濡れになった。ふくらはぎと太ももははちきれそうになった。その日はそのあとずっと、一歩を踏むたびに、あやつり人形のように膝がガクガク震えた。

image.jpgその日の宿は「美廬山荘」。蒋介石・宋美齢の別荘「美廬别墅」に隣接しており、かつ、きれいそうなのでそこにした。3つ星から4つ星の間というところかな(廬山には5つ星級以上、もしくはそのサービス水準以上のホテルはおそらくない)。古い別荘を改修してホテルとして利用している点は良かったのだけど、レストランとかはないし、夜になると玄関の鍵がしめられてしまったり、その他諸々の事由により、イマイチだった。

翌朝は日の出直前に、自分で玄関の鍵を開けて、別荘地の散歩に。朝靄に覆われた松林の中、車の音もなく、人影もなく、実に快適だった。

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実はこの散歩が今回の廬山行の第一の目的。蒋介石暗殺未遂の場面設定をしようと思い、みつけたのが上の写真の径。

image-a0e25.jpgこの坂を朝の散歩中の蒋介石が衛兵を引き連れてのぼってくる。木陰に隠れてふたりの刺客が息を殺し襲撃のタイミングをはかっている。 そしてもうひとり、孫文の三民主義に傾倒し三民主義から逸れてゆく蒋介石を憎悪するこの短編小説の主人公が、ふたりの刺客の監督者として右の写真の視点で見ている………

ちなみにこの写真はいまは廃墟となっている孔祥熙の別荘の敷地内から撮っている。そのすぐ隣には、かつては宋慶齢の別荘が建っていた。

(その3へ続く)





2014年09月08日

廬山 その1

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廬山。

標高は1000メートルを超え、四大ストーブのひとつと言われる武漢のすぐそばにありながらも夏も涼しい。19世紀末にイギリス人宣教師がこの地に教会を建て避暑地として開発し、その後イギリス人やその他欧米諸国の人々が競うように別荘を建てた。1930年前後には蒋介石など国民党の幹部もこぞってここに別荘を持った……

という話を、まだ領事館にいた頃に知って、ぜひ行ってみたいと思った。

でも機会がなくて、15年以上を経て、ついに廬山にのぼった。

image-18984.jpg先週書き上げた短編小説は1931年の蒋介石暗殺未遂の場面から始まる。その舞台が廬山で、とりあえずはWEB上の廬山紹介文や写真、google mapの航空写真などを見て、あとは想像で情景模写をした。でもやっぱり自分の目で実際に見ていろいろ確かめたく、廬山に行ってみることにしたのだ。

ちょっと苦労した。

まずは荷物の問題。広州でゴルフをしたあと上海への移動の途上でよったのでゴルフバックを担いでいる。移動のことを考え極力荷物を軽くすべくクラブはわずか9本にし(5番より長いアイアンとピッチングを家に置いてきた(ちなみにピッチングを置いてきたのは失敗だった。9番での慣れないスリーコーター・ショットはことごとく左へ飛んだ))、ゴルフシューズっぽい靴を履いてゴルフシューズも持たずに来たのだけれども、ゴルフもしないのに山にクラブを持って上がるなどという愚かなことはしたくない。廬山站に預けることも考えたが、駅に荷物預かり所があるかどうかわからない。結局、廬山の前後に武漢に泊まることにして、武漢のホテルにゴルフバックとキャリーバックを預けてバックパックひとつで廬山に登ることにした。本来は廬山のあと、廬山から近い南昌を経て上海へ向かうつもりだったのだけれども、ゴルフバックのためにちょっと面倒な経路をとらざるを得なくなった。

ちなみに余計なことだけど、上に「バックパック」と書いたが、正確に言えば僕が持っていたのは「ショルダーストラップのないショルダーバッグ」。家にショルダーストラップを置いてきちゃったのだ。で、急遽、ゴルフバックのショルダーストラップを使うことにした。僕のゴルフバックは両肩で担ぐタイプなので、ショルダーバックがバックパックとなった次第である。
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これが………

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こうなった。


image.jpg次に、情報が少ないこと。武漢からの鉄道は廬山站に着く。ところが廬山山上へは通常廬山站から北へ20kmほどの九江から登るようで、廬山站からの登り方がわからない。廬山についてWEB上には日本語では体系だった説明は全然なく、中国語のものも、廬山内の各観光スポットについての説明はあっても、廬山へのアプローチについて詳しく書いてあるものは見当たらなかった。結局は廬山站で降りてすぐのところで旅行会社が陣取っており、それが廬山往復と廬山内周遊で120元と言うので利用することにした(が、廬山内周遊や廬山からの下山にはわざわざ電話をしてバスを呼ばなくてはならないとのことだったので、結局片道にしか使わなかった)。

廬山山上を目指すバスは途中のゲートで止まり、そこで乗客は各自入山料の180元を支払わねばならない。高いけれども、それは事前に調べて知っていたので驚きはしなかった。しかし山の上にあがってからの周遊の仕方は事前に調べてもわからなかった。廬山の集落を歩いていると周遊巡回バスのバス停があった。どうやらそれに乗れば良さそうだが、乗り方がわからない。ずいぶんと歩いて巡回バスの起点となっている場所を見つけ、そこでようやく80元で7日乗り放題のチケットを手に入れた。

(その2に続く)






2012年12月29日

武漢上海間はCRH(高速鉄道)で

武漢から上海へはCRH(高速鉄道)に乗ることにした。

時刻表を見ると、一日一便だけ5時間未満で走る列車がある。他のは6時間程度かかり、その便だけがずば抜けて速い。途中停車駅を調べてみると、この便はなんと途中の駅に一つも寄らない。南京も合肥も飛ばしてしまうようだ。

滞在していたホテルからは武昌駅に行くほうがずっと楽だったのだけれども、迷わずに漢口駅始発のこの列車に乗ることにした。
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武漢を出て約5時間後、始皇帝がつくったんじゃないだろうかと思ってしまうほどにバカデカイ虹橋駅に着いた時、「飛行機より鉄道のほうが楽かもしれない」と思った。

鉄道のほうが席は広いし、空いているし、いつでも自由に動き回ることができる。トンネルの中などを除いてほぼ全行程でオンラインで仕事ができ、仕事に厭きれば車窓から華東の田園風景を楽しむこともできる。鉄道での5時間よりも狭い機内で拘束される1時間のほうがずっと苦痛だ。

高速鉄道の車内が飛行機よりもずっと静かであることも楽な理由のひとつだと思う。車内で斜め後ろの席ではDVDを見ていて、斜め前の席ではヒマワリの種をポリポリ食べる音がうるさかったが、ipadにイヤホンを差し込み音楽を聴いて雑音の一切を排除し、仕事に没頭することができた。

それに加えて、鉄道利用は命の危険が飛行機よりもずっと低い(と思う)。鉄道なら事故があってもまず全員死ぬことはないだろうし。

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南京で長江をわたる

武漢から上海までは約830キロ。それを約5時間で走るということは平均時速約166キロ。実は200キロにも達していない。その理由は武漢から南京までは在来線を走るためのようだ。おそらく南京までを時速100キロ強、南京から先を時速200キロ強で走っている。南京から先はカーブの少ないCRHの専用線で、かつ、その専用線だけで複々線になっている。途中で他の走行中のCRHを追い抜いた時は驚いた。

ちょっと不思議だったのは、合肥と南京でそれぞれ数分間停車したこと。時刻表上では停車駅はないのだが。なんのために止まったのだろう。

武漢上海間はCRH(高速鉄道)で その2

2012年12月24日

重慶と武漢

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旧漢口站。北京から武漢への鉄道の終着駅だったところ。
不届きなタクシー運転手のせいで、日没ギリギリの撮影となってしまった。


重慶から武漢に移動した。

世界中のどこの都市へ行った場合でも、その第一印象はかなり良いかかなり悪いかのどちらかであり、その中間ということはまずない。

重慶は前者であり、武漢は後者だった。

(1)重慶は12月中旬だというのに最高気温は20度に近く、最低気温は10度を下回らなかった。暑くもなく寒くもないちょうどいい気候。一方で武漢は寒かった。華南→重慶とまわってきたので、くるくる巻きににしてカバンに押し込んでおいたダウン・ジャケットを取り出して、ヒートテックまで着こんでもまだ寒かった。陽が落ちてからタクシを探してトボトボと歩く長江沿いの大通りはかなり辛かった。

(2)武漢のタクシーは、たまたまそういう運転手に当たったのかもしれないけど、かなり質が悪かった。

空港からダウンタウンへと乗ったタクシーは「ウェスティンホテルへ」と伝えても「知らない」と言い、ipadで地図を見せても、老眼なのか、ちょっと腕を伸ばして見たのちに、すぐに「見えない」と言って地図を見るのをやめてしまった。住所を伝えて走り出すが、漢口にあるマルコポーロ・ホテルへと連れていかれてしまった。ウェスティンは長江の対岸の武昌に所在する。はるかに見当違いの場所だ。

その後なんとかウェスティンにたどり着いたが、思っていたより20分以上余計にかかってしまった。メーターは82元を示しており、運転手に100元を渡すと5元札を戻してきた。「足りないぞ」と言うと、有料道路代が10元だと言う。有料道路代を払った様子はなかったのだが、それにしても82元+10元=92元であり、95元を要求するのはおかしい。それを指摘すると、運転手は笑いながら5元札をひっこめ10元札を差し出した。

チェックインののち、漢口の中心部へ行こうと思いホテルの前でタクシーに乗った。女性の運転手である。

漢口に行くためはいったん左折をしてからトンネルを通っていくのが近いのだが、運転手は左折を試みるもすぐに諦め直進し、次の交差点でも左折のために交差点の真ん中で停車したが、そこでも左折を断念してしまった。その時は、よっぽど気の弱い運転手なのだろう、と思い黙っていたのだが、車はどんどん漢口から離れ、ついには漢陽へ入ってしまった。それでも僕はまだ、ずいぶんと遠回りになったけど渋滞を避けるためなのだろう、と自分に言い聞かせ黙っていた。ところが運転手は、
「もう市内に行きたくない、タクシーを乗り換えてくれ」
と言い出したのだった。

さすがに僕も怒り、とはいえ声を荒らげるのは時節柄よろしくないので、怒りを言葉には出さず、
「じゃあ軽軌(高架鉄道)の駅で下してくれ」
と、妥協した。

運転手はしぶしぶながらも軽軌の駅に向かったが、駅から100メートルほどのところで、
「この路地に入ると戻るのが大変だから」
と言って、いきなりUターンをして車を止めた。

よっぽど怒鳴ろうかとも思ったが、喧嘩するのも体力の無駄だと思い、ただ、
「あんたほど悪い運転手に会ったのは初めてだ」
と捨てゼリフを吐いて車を降りた。

(3)武漢は長江を越えての移動が不便過ぎ。重慶も長江の対岸に宿をとった場合にダウンタウンに行くのが面倒ではあるが、地下鉄がつながっているし、ロープウェイもある。しかし武漢はタクシーを使わなければならず(バスはあるだろうけど)、そのうえタクシーは二台に一台は長江の対岸に行くことを拒否する。加えて長江をくぐるトンネルはいっつも渋滞している。

これらのことに加えて……

(4)今回武漢に行った最大の目的は、今書いている小説の舞台の一つになっている宋慶齢の武漢における住居、すなわち1927年初から夏にかけて武漢にあった国民政府の財政部の建物の中を見ることだったのに、改修中で見ることができなかった。重慶でも蒋介石政権の中枢の住宅群が改修中であったけれども、こちらは建物の外からでも十分に雰囲気を味わうことができたし、一部の建物はドアが開け放たれており、中を見ることができた。しかし武漢では目的をかけらも果たすことができなかった。
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武漢宋慶齢故居=1927年武漢政府財政部
中に入れなかった……


そんなこんなで僕の武漢に対する印象は非常に悪いものとなった。

しかし小説の展開上で重要な位置を占める宋慶齢故居はどうしても見ておかなくてはならない。もう来たくはないけど、近いうちに出直さなくてはならない。

2012年12月20日

重慶の金ピカホテル

ホテルにチェックインする時、ホテルのスタッフが妙に丁寧な場合はそのホテルは外れであることが多いように思う。

丁寧すぎるのは、たいてい不慣れであることの裏返し。

重慶のシェラトンホテルがそうだった。

まず、チェックインにすごく時間がかかり、
部屋のドアは力をいれてひっぱらないと閉まらないし、
外出しようと思い、ボーイにタクシーを頼むと「道路のこちら側はなかなかつかまりません。ほら対岸なら空車がありますよ。あちらに行ってみてはどうですか」と言われた。

その夜はホテル内のレストランでビュッフェの食事をすることにした。カウンター越しのコックに麺をゆでるよう頼んでから他の料理をとりに行ったのだが、そのコックはなにやら他の客と雑談を始めた。料理を一通り取り終わりテーブルについてもまだコックは話し込んでいる。5分ほど経って、いくらなんでもおかしいだろうと思いコックに「麺はまだか」と訊いたら、「すいません。忘れていました」だって。

実はチェックインする直前から、このホテルには怪しさを感じていた。

入口のすぐ前に写真の車が止まっていたのである。
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き、き、金色のリムジンって。。。。。。

ロビーも部屋も金ピカだった。

日本人でこれほどまでに金を好むのは、おそらく豊臣秀吉と足利義満しかいない。
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ビルも金ピカ

2012年12月18日

重慶抗戦遺址博物館へ(1)

蒋介石の国民政府が南京を逃れ重慶にこもったあと、国民党の幹部は重慶市の南西郊外の山間に隠れるように住んだ。

今そこは「重慶抗戦遺址博物館」として公開されている。

市内の観光地ではないので、どうやって行くか、まずそれを考えなくてはならなかった。

普通ならタクシーで行くところだが、ホテル周辺で流している車が少なく、また、尖閣問題以来の対日感情悪化を考えると、タクシーで未知の場所まで行き、そこで運転手を待たせて同じ車で帰ってくるというのも、なんだか気が重かった。

ではホテルで車をチャーターしてしまおうかとも思ってコンシェルジェに値段を訊いてみると、ずいぶんと高いことを言う。

ウェブで調べると、384番のバスが重慶抗戦遺址博物館の正門前に止まることがわかった。さらに調べてみると、なんとそのバスはホテルのすぐそばを通る。目的地に行ける唯一の路線バスがホテルのそばを通るなんて、なんてツイているのだろう、と思い、結局バスで行くことにした。

市外へ向かう路線バスなど本数は少ないに違いないと思い相当に待つことを覚悟していたのだが、停留所について2分もしないうちにバスがやって来た。

しかし、いいことが続くと、なぜか、そのあとには悪いことがあるものである。乗客の数がだんだんと増え、やがてまっすぐに立っているのもしんどいくらいになってきた。

さらに、バスが死んだ。停留所で止まって、エンストしたかと思ったらエンジンがかからなくなった。

エンジンが止まってから数分が経ち、これはだめだな、と思い始めていたのだが他の乗客は辛抱強く出発を待っている。

僕は後ろの窓からバスの後方を見ながら、
(タクシーが来たりしないかなぁ)
と思っていた。

二つの悪いことが続いたので、次はいいことが発生する番なのか、フロントグラスに「空車」の文字を点けたタクシーが近づいてきた。僕は乗客を押しのけてバスの外に飛び出し、そのタクシーをつかまえた。

ところが、その次にはいいことは続かなかった。それどころか、最悪と言ってもいいことが発生した。

重慶抗戦遺址博物館が维修(修繕)のためクローズしていたのだ!

(この話の続きは、また明日)

2009年03月16日

天然温泉も楽しめる海口シェラトンリゾート

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先週の日曜・月曜と暇だったのと、上海があんまり寒いので海口へ行ってきた。1泊600元代(税・サービス別料金)で泊まれるシェラトンのリゾートがあるので、そこに泊まってゆっくりとモノ書きでもしようと思い立った。

今回は、その「海口シェラトン温泉リゾート」のご紹介。




海口シェラトン温泉リゾートの最大の魅力は安いこと。1泊1万円しない高級ビーチリゾートなんてめったにない。上海から行っても、70%引きなんて航空券が出回っているので、500元ほどで行くことができる。広州からならなんと300元弱。

それから、ビーチやきれいなプールの他、天然温泉があること。各客室の風呂のお湯は天然温泉なのだそうだ。

海口シェラトン温泉リゾートは海口の市街地から西へ車で15分ほど走ったところのビーチ沿いに建っている。空港からはタクシーで40分。海口のタクシーのメーターは、どうやら改造されていることが多いようなので、事前に運転手との間で価格を決めてしまったほうがいい。市内からなら50元、空港からなら100元程度だろうか。



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椰子が広がりやプールが点在する広いホテル専用敷地。


プライベイドビーチがあり、3月初旬とはいえ水温は十分に泳げるくらいあたたかく、マリンスポーツも楽しむことができる。実際には誰も海には入っていなかったが、水が冷たくてというよりも、客が異常に少なかったためだろう。客は、僕の他には3カップルor家族程度しかみかけなかった(ちなみに僕は一人である。あらぬ疑いをかけられぬよう、念のため)。

広い敷地内に複数のプールがあるが、こちらは、3月初旬の気候だと結構気合いを入れないと水に入れない。中央のプールの脇には、天然温泉(聴説)のジャグジーが4つある。泡が出ていると水がきらいなのかどうだかよく分からない、という難点はあるものの、水温は高く、かなり長居をしてしまった。




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プレイベイトビーチとプール横の天然温泉


客室数は341。各客室には天然温泉(也聴説)が引かれている。バスタブにつかりながらベッドルームのDVD機につながれたテレビを見ることもできるので、日に何度も風呂につかり、本を読んだり、持参したDVDを見たりして過ごした。

ホテルの周りにはほとんど何もない。隣接してばかでかいリゾートホテルがあるが、シーズンオフのためか閑散としており、レストランもオープンしているのかどうかわからなかった。車で5分ほどのところにゴルフ場がある。

ホテルの飲食施設は、中華・西洋料理の各レストランと軽食もあるカフェレストラン、さらにロビーバーがある。中華は少々高い。ウェスタンは、オーダーした食前酒がなかなか出てこず、スープや一品目の料理が先に出てきてしまったので、さすがにこれは説教してやった。

スパ「Touch」がある。東京はもとより上海のスパに比べても安く、さらにフロントでいえば100元の割引券をもらえるので結構お得感がある。僕が受けたのは1時間のロミロミマッサージ580元也。




日ごろの行いが悪いのか、滞在中はずっと曇りで、チェックアウトし、空港に向かう車に乗っている時に初めて青空を拝んだ。

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ベッドルーム(奥に天然温泉のバスタブが見える)とリビングルーム


海口喜来登温泉度假酒店
海口シェラトン温泉リゾート
Sheraton Haikou Resort

海南省海口秀英区濱海大道199号【地図
TEL:0898-68708888
FAX:0898-68706999

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タッチ・スパ
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