2014年04月19日

上海鉄路博物館

上海火車站の歴史は浅く開業は1987年の年末のこと。それまでの上海の中心駅は上海北站で、いまの上海火車站のやや東側にあった。地下鉄の駅でいえば上海火車站から3号線か4号線で一駅行った宝山站のあたり。

1931年7月23日早朝。この上海北站で宋子文(国民政府財政部長)と重光葵(駐華日本公使)が同時に暗殺されそうになるという事件が発生した。

ふたりは対立するふたつの国それぞれの要人であって立場は真逆だし、ふたりのそれぞれの暗殺者は互いに無関係なのだけれども、同じ日に、それも同じ列車から降りてきたふたりに対する暗殺未遂事件が起こるなんて、単なる偶然とはなかなか思い難い。

昨年、このことを題材に小説を書いていて、暗殺シーンの模写をするために当時の上海北站の様子をいろいろ調べてみた。その過程で上海北站があった場所にいまは「上海鉄路博物館」が建っていると知り、ひょっとしたら駅舎内部の様子などわかるかもしれない、上海北站のミニチュアくらいあるかもしれない、と思って機会があったらいってみようと思っていた。

で、いってみた。帰ってきてすぐにこれを書いている。

image.jpg上海北站はターミナル駅であり、複線の線路が駅に近づくとどんどん枝分かれしていって、駅舎の前でそれらの線路がどん詰まりになるようになっていた。それは現在もそのまま残っており、宝山路站の窓から見ることができる。これはおもしろかった。「重光がこう歩いて、それからしばらくして宋子文がこう歩いてきて、暗殺者はここに潜んでいて」と、いろいろと想像することができた。

image.jpgしかし宝山路站から5分ほど歩いて着いた上海鉄路博物館には特段みるべきものはなかった。上海北站の駅舎の中の一部を写した写真が一枚だけ。あとはなんの参考にもならなかった。展示されている写真の多くはネット上でも探せたものばかりだったし。この博物館、すごく小さい。4、5階だての立派な建物なのに博物館部分は1階だけ。じっくりみても30分もかからない。

上海鉄路博物館 
 天目東路200号
 9時00分〜11時30分, 14時00分〜16時30分 日曜休業

posted by osono at 19:09 | Comment(0) | 上海

2014年01月23日

メトロポール・ホテルとハミルトン・ハウス

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上海福州路と江西中路の交差点で写真を撮ってきた。左側はメトロポール・ホテル(現新城飯店)、右側はハミルトン・ハウス(現復州大楼)で両者は復州路をはさんでたっている。

写真で見てわかるように、両方の建物は非常に似ている。それもそのはず、全く同時期に同じ設計者によって建てられたのだそうだ。

メトロポール・ホテルは、今は3つ星ホテルだが、租界の頃は高級ホテルだった。

ハミルトン・ハウスは、往時は企業の事務所と高級住宅が混在する建物で、著名ジャーナリスト松本重治はここに住んでいた(松本は以前は虹口に住んでいたようだが、こちらに越してきた)。

松本重治が日本行きを渋る元外交部亜州司長高宗武を説得するのがこのハミルトン・ハウス内の松本の自宅である。「上海エイレーネー」の第三章では、主人公・靄若の指示で靄若の同僚の工作員が向かいのメトロポール・ホテルで監視しているときに高宗武が現れる。そして……(ネタバレとなるため、以下省略)

IMG_0164.jpgところで、この福州路と江西中路の交差点は四方のコーナーが削られており、ローターリーのような形状になっているのが珍しい。僕の記憶ではこの交差点の中央あたりに、おかしな形(どんな形だったか思い出せない)をした租界の頃のマンホールがあったように思うのだが、見つけられなかった。写真のような四角いマンホールがあったが、マンホールに刻まれた文字を見ると(写真ではブレていてよく見えない。ごめんなさい)、古いものではないらしい。でも四角いマンホールというのも珍しいと思う。だって四角いと、少し角度をずらせば落っこちてしまうはずだから。

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posted by osono at 14:49 | Comment(0) | 上海

2014年01月19日

上海クラブ(現ウォルドーフ・アストリア上海オン・ザ・バンド)

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夜中の外灘探索の最後は上海クラブ(現ウォルドーフ・アストリア上海オン・ザ・バンド(上海外灘華爾道夫酒店))。

clubnaka.jpgこの建物は、僕が上海に赴任したころは「東風飯店」という3つ星か4つ星のホテルだった。その後長期にわたって閉鎖され、中を見ることができず残念だったのだけれども、2010年に5つ星の「ウォルドーフ・アストリア上海オン・ザ・バンド」の一部として再オープンした。

上海クラブについては「上海エイレーネー」の中で(61ページ)次のように説明した。
 上海クラブは在上海イギリス人の社交の組織である。会員のほとんどはイギリス人で、入会審査が厳しく、日本人のメンバーはわずかに同盟通信社中南支総局局長の松本重治と在華紡績同業会理事長の船津辰一郎の二人しかいない。地下室を含めて六層のビルの中にはレストランやバー、チェスルーム、シガールーム、宿泊施設などがある。内装は日本人建築家の下田菊太郎によるが、調度品の多くはイギリスから輸入した最高級品であり、エレベーターもイギリスから直輸入されたものが使われている。

clubelebe.jpgそのエレベータはロビー横に今もあり(使用はされていない)、当時を偲ぶことができる。

バーについては62ページで次のように書いた。
 四面鏡板のバーには客がまだまばらで、密談には最適な空間だった。
 カウンターに並んで座るとすぐにバーテンダーがカウンターを横滑りしてきて二人の前に立った。そして二人に対してラストネームとともに形式的な挨拶をしたあと、無表情のままでオーダーをとり離れていった。
(中略)
 エドマンドはカウンター越しのバーテンダーの立ち位置をちらりと確認した。松本の声が大きく、会話を聞かれないか気になったのだ。このバーの三十メートルもあるカウンターは東洋一の長さと言われており、ひとりのバーテンダーが担当する範囲も、それは東洋一ということはなかろうが、ずいぶんと広い。幸いバーテンダーは二人から五メートル以上離れたところでシェイクを振っており、二人の会話は聞こえていないはずだ。


clubbar.jpgウォルドーフ・アストリアを外灘側から入ってすぐ左側に、その名も「ロング・バー」というバーがある。ここでは、かつて東洋一の長さを誇ったカウンターやその他の内装が当時の写真などをもとに再現されている。

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posted by osono at 22:58 | Comment(0) | 上海

キャセイ・ホテル(現和平飯店)

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ライトアップ終了後の外灘探索の続き。

写真はキャセイ・ホテル・現和平飯店のロビーの様子。

和平飯店は改修のためしばらく閉鎖されていたが、2010年に4つ星から5つ星に生まれ変わって再オープンした。ただし、ロビー奥のバーの内装はほとんど手を加えられていないようで、グラス片手に老人プレーヤーたちのオールド・ジャズに耳を傾ければ、魔都上海にタイム・スリップすることができる。

キャセイ・ホテルは租界の頃の上海を代表する高級ホテルで、『上海エイレーネー』でもしばしば舞台となる。原稿内の「キャセイ・ホテル」による検索結果は14回であった。

259ページは、主人公靄若と前首相の御曹司隆明とが初めてのデートをする重要な場面。
 隆明はタクシーを降り、天に突き刺さるかのように聳えるピラミッド型の屋根を見上げた。
 キャセイ・ホテルは、銀製の蛇口、大理石の浴室、寝室ほどもある広いウォーキング・クローゼットなど、高級設備を誇る上海随一の名門ホテルだ。最上階には所有者であるエリス・ヴィクター・サッスーンが居住するペントハウスがある。
 ロビーは高級服を身にまとった旅行者やビジネスマンでごったがえしていた。巨大なトランクが積み上げられた山を見ると、ここが世界じゅうの人々の最終目的地、上海の玄関口であることを実感する。
 回転ドアを回して靄若がロビーに入ってきた。
 コートの裾をわずかに揺らすあでやかな姿を見て、隆明は、この回転ドアも、大理石の床も、豪華な装飾が施されたシャンデリアも、みな靄若が今登場するためだけに設えられた舞台のセットなのではないかと思った。


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posted by osono at 01:33 | Comment(0) | 上海

2014年01月18日

英国総領事館(現ペニンシュラ・ホテル)

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次に英国総領事館。

現在の外灘33号にある。

広大な敷地を有し、現在はその敷地内にペニンシュラが建っている(ペニンシュラの敷地内に旧英国総領事館が建っているというべきかな)。

この建物だけは、まもなく23時過ぎだというのに煌々と輝いていてなんだか趣がなかった。この写真では広い庭がわからないし、前方の木がじゃまで、まるで木を撮影することが目的だったかのようなようにみえるし。

waitan13.jpgちなみに右は、ずいぶん昔に撮った写真。

英国総領事館は南京条約(1842年)による上海開港ののちすぐにこの地に置かれたが、そのときの建物は焼失し、現在みられる建物は2代目のもの。1870年代の竣工で、上海外灘で最も古く、唯一の19世紀の建物なのだそうだ。

上海エイレーネーの中では、英国大蔵省から派遣された外交官、エドマンド・レオ・ホール=パッチが、主人公、靄若をサポートし続ける人間として描かれている。靄若は密かにホール=パッチに好意を寄せ、ホール=パッチのほうも、どうやらおそらく靄若に好意をもっているようだ。

そのためホール=パッチの職場、英国総領事館も作中、何度も出てくる。「ガーデン・ブリッジ」と同様に原稿内を検索してみると、「イギリス総領事館」の単語の登場回数は12回だった。

例えば物語のほぼ冒頭の43ページ。
靄若を助けた白人男性のオフィスは歩いて数分のところにあった。

門衛が二人、銃剣を手に直立するゲートの向こうは深い緑に覆われており、混乱する外灘とは異次元のようである。回廊の両側に並ぶ樹木の向こうには広い芝生が広がっており、その先には、緩やかに傾斜する赤い屋根の、ベランダを巡らした二階建て洋館が見える。外灘に並ぶ他の建物は高層で、道路に面して建てられているが、ここは低層で道路から奥まって緑の中に建てられている。今の上海の混沌は自分には全くあずかり知らぬことだと主張しているかのようでもあった。

次第に気持ちが落ち着いてきた。ほんの十数分前に爆弾の投下を目のあたりにしたのが嘘のようだ。

広い庭を抜ける間に男性は、ここはイギリス総領事館であり、自分の名は「エドマンド・ホール=パッチ」だと言った。


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posted by osono at 09:58 | Comment(0) | 上海

2014年01月17日

ガーデン・ブリッジ(現外白渡橋)

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1930年代の雰囲気をより感じることができるんじゃないかと思って、外灘の建築群のライトアップ終了後の深夜の様子を撮影してみた。

写真はガーデン・ブリッジ(現外白渡橋)。

ガーデン・ブリッジは1907年の竣工で、2008年に一部修復されたが、100年以上前の姿がほぼそのまま残っている。

上海エイレーネー」の主人公・靄若は作中で何度もこの橋をわたる。

原稿を検索してみると、作中で「ガーデン・ブリッジ」という単語が16回も登場する。

例えば132ページ。
緊張していて気づかなかったが、今夜はかなり寒い。蘇州河の上を吹く風が冷たく、両手で耳を覆いながらガーデン・ブリッジを渡った。橋の中央で通行する者ひとりひとりを睨みつける日本兵の横を通り、対岸の橋のたもとで無表情に立つイギリス歩哨の脇を抜けた。ガーデン・ブリッジを渡ってすぐ左手にはパブリック・ガーデンがある。夏ならば夕涼みの人で賑わうこの公園も、この寒空の下で人影は見られなかった。

1937年11月の上海陥落からまもなくして、ガーデン・ブリッジの中央に日本人の歩哨が立つようになった。橋を渡る人は、日本人も中国人も、みな頭を軽く下げて日本兵の横を通り抜けたそうだ。

ちなみに、蘇州河から吹く突風が耳を覆いたくなるほど冷たい、というのは創作。実をいえば、この橋を歩いてわたる時に他の場所に比べて風が特に強いと思ったことはないので(この写真を撮ったときは無風だった)、実際にはそれほど寒くなることはないのかもしれない。

それから例えば191〜192ページ。
靄若は松本の考えを推察した。ガーデン・ブリッジの歩哨は左側通行の橋の左側に立っている。松本はそこを日本語で同盟通信の車だと言って通過する気なのだろう。右側に座っている高宗武は、帽子で歩哨からは顔が見えない。胸には記者バッジが付いているので、歩哨も彼を記者だと思うだろう。

著名ジャーナリスト松本重治はその著作「上海時代」下巻の中で、国民政府の元外交部亜州司長、つまり日本風にいえば元外務省アジア局長を車に乗せ、ガーデン・ブリッジを渡った時のことを記している。この部分はその記述を参考にしている。高宗武は徹底抗戦の姿勢を強める蒋介石の意向に反して日本との和平交渉のために日本に向かうのだが、上海深夜発のEmpress of Japan号に乗る直前に決心がにぶり、松本重治の家で酒を飲みながら松本に説得される。そしてようやく日本行の決心を固めた高宗武は松本の車で虹口の港に向かうのだが、国民政府高官である彼は、途中のガーデン・ブリッジで歩哨に誰何され拘留されるおそれがあり、歩哨の目をたばかる必要があったのだ。

ちなみに、松本重治の車が高宗武を載せてガーデン・ブリッジを渡ったのは1938年7月2日午後11時半頃。ちょうど僕がこの写真を撮ったのと同じ時刻だ。この写真を見つめていると、同盟通信社の旗を立てた黒塗りの車が橋の真ん中に停車しており、その車内を日本兵が覗き込んでいる姿が見えてくるような気がしないか。

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posted by osono at 23:56 | Comment(0) | 上海

2014年01月13日

上海外灘のニーケー(ビクトリア)

魔都と呼ばれたころの上海を舞台にした映画を見たことがあるひとなら誰でも知っていると思うが、戦前、いまの延安東路と中山一路が交わるところに勝利の女神像が立っていた。

megami.jpgこの像は、第一次大戦の英仏らの戦勝記念と戦死した居留民の追悼のために、ちょうど共同租界と仏租界の境界である場所に1924年に建てられた。かなり大きかったようで、台座を入れると20メートルを超えたらしい。彼女は当時の上海のシンボルだった。
(写真は「上海影視楽園」にあるレプリカ)

いつごろからだろうか、僕はなんだか彼女に魅かれ、その気持ちは募っていった。そしていつしか、彼女のことをなんらかのかたちで書きたいと思うようになった。

そんなわけで、「上海エイレーネー」では彼女に重要な役割を演じてもらった。

彼女を慕いはじめて以来、僕の頭の中にはずっとひとつの光景があった。

女神像とそれを見上げる少女。背後に太陽があって、シルエットになったふたりが見つめあっている……

「上海エイレーネー」冒頭の女神像と少女とが会話する場面はわずか2ページしかないけれども、僕のあたまの中では何年もの間あたためられたシーンなのだ。このシーンのイメージがまずあって、それを膨らませているうちにこの物語ができあがったといってもいかもしれない。

彼女は太平洋戦争勃発とともに上海に侵攻してきた日本軍によって撤去されるのだが、それと同時に上海は暗黒の時代に突入する。

以下は本作末尾に載せた「モデルとした人々のこと」からの引用。
勝利の女神像は、黄浦江のほとりに立ち上海の街を見守り続けた。しかし1941年12月、太平洋戦争開戦とともに日本軍が上海租界に進駐し、ほどなくして女神像は日本軍によって取り壊されてしまう。日本軍は勝利の女神像を欧米支配の象徴とみなし、それを撤去することにより、日本は上海を解放したのだと喧伝したかったようだが、却って日本の横暴を内外に示す結果となった。上海の富や人材は四散してしまい、第二次大戦終結によりいったん上海は活気を取り戻すが、その後の共産党の勝利によって再び沈む。女神像の撤去以降、上海は守護神を失ったかのように約半世紀にわたる沈滞を経験することになる。

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posted by osono at 23:43 | Comment(0) | 上海

セクシー上海語の素敵な彼女

元来、超不真面目フェイスブック・ユーザーで、“友達”の数も両手では余るけれども両足を加えれば数えられるくらいだったのだけれども、ちょっと不純な動機もあって昨日くらいからせっせと友達を増やす努力をしている。

そんな折、とってもなつかしい人からメッセージが届いた。

僕が三和総合研究所(現三菱UFJリサーチ&コンサルティング)の上海の出先機関にお世話になっていたころの上海人の同僚で、復旦卒の才女である。当時のボスと“友達”になったところ、その18時間後に「お元気ですか」とメッセージを送ってきてくれた。

むかし、僕は彼女のことが好きだったのだ……というと小さくない波紋を起こしそうだけれども、恋愛感情じゃない。そのころ既に彼女は人妻だったのだ。そうじゃなかったならばどうなったかは知らないけど、こんな僕でも人妻に恋心を抱かないくらいの理性はある。

長い年月を経たあとで、むかし憧れていた異性から連絡をもらうこと。おそらくそれはバック・ナインに入った人生において最もうれしいことのうちのひとつ、といっていいに違いない。

で、何がそんなに好きだったかというと、もちろん容姿も人柄も素晴らしかったのだけれども、なによりその声が素敵だったんだ。

  セクシー上海語

当時僕は、彼女のしゃべる言葉をそう呼んでいた。

彼女と出会うまで僕は、どうも上海語というのは耳に心地よくない、と思っていた。特に男性の上海語。なんだかツンツンしていてカンカンしていて、それでいてズルズルしていてザラザラしていて。

しかし彼女は違った。

当時オフィスの中での会話は北京語か日本語だったが、時折上海語で電話をしている彼女の声が聞こえてくる。彼女の話す言葉はなんとも耳にやさしかった。僕は目を閉じて清流のような彼女の声に耳を傾けた。

「テバチ,テバチ」(对不起,对不起)

「モエノン」(麻烦你)

ああ、思い出しただけで頬がほてってくる。

***

ところで彼女、実はこのブログの名づけ親なんである。

情報サイトを運営していたころ、日々更新されるコラム欄に「天声人語」とか「大機小機」のような、なにかいいタイトルをつけたいと思っていた。

そこで彼女に「アイディアない?」と尋ねたところ、すぐに「『春風得意』なんてどう?」とセクシーな声が返ってきた。

無学な僕はその意味を知らず、「へ?」っと訊き返したのだが、彼女の解説を聞いて即決した。

「春風得意」は、唐代の孟郊の七言絶句、「登科後」の中の一節(詳しくは以前こちらに書いた)。

立ち上げ直後でサイトを大きくすることに熱中していた僕は、順風満帆を意味するこの言葉を、すぐに気に入った。そして、こんなピッタリな言葉をすぐに思いつく彼女をスゴイと思った。

そのコラム欄はしばらくして閉じてしまったのだけれども、その言葉が好きで、自分のブログのタイトルとして掲げることとした。

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posted by osono at 00:57 | Comment(0) | 上海

2013年02月23日

孫中山故居記念館

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宋慶齢が住んだ家というのは中国のあちらこちらにあるが、上海の香山路・思南路交差点すぐそばにある洋館もそのうちのひとつ。慶齢がこの家をよく使ったのは孫文との結婚後すぐの20代から30代の若い頃だが、それはすなわち孫文の死をまたいだ時期なので「孫文が晩年をすごした家」と説明されることが多く、呼称も「孫中山故居記念館」である。

1930年前後にこの家が政治上の重要な舞台となったことが少なくなく、今書いている物語でここでの場面が出てくるので、自分の想像が正しいかどうかの検証のために見にいってみた。

ちょっとした驚きがいくつかあった。

まず、「孫中山故居記念館」で画像検索するとでてくる、玄関前に車を4台くらい停められそうな広いスペースを有する青みがかった灰色の洋館がそれだと思いこんでいたのだが、それは実は、当時はただのお隣さんだったのだそうだ。それを現在記念館として使用しており、故居へはこのお隣さんの建物を通って行くようになっているので、こちらのほうが画像検索で目立ってしまっている。

次に、家の中が意外なほどに小さいこと。1928年に国民党が武漢と南京に分裂しようとしていた時、蒋介石に近い人々が、フランスから武漢へ向かうために上海に立ち寄った汪兆銘をこの家にとどめて、共産党との決別を迫り連日説得するのだが、資料を読むとこの家に十数人が集まったようなのに大人数が一堂に会することができるような部屋がないのである。それぞれが8畳ほどのダイニングとリビングと書斎と寝室。プラス6畳ほどの小部屋。まさか庭で連日の会議を行ったということはあるまいから、リビングのソファセットに汪兆銘と反武漢側の長老格3人が座り、その他の人々はソファの後ろに立っていたのだろうか。その頃まだ若かった宋子文は間違いなくソファに座れなかっただろうけど、ソファの後ろにも立っていなかったにちがいない。彼はその時まだ武漢側でたまたま上海にいたのであり南京への寝返りを決断するより前だし、連日の会議中、彼は全然発言していないようなので、おそらくリビングの隣のダイニングルームのテーブルに一人座り、「あ〜あ。おれんちなのになあ。早く帰ってくれないかなぁ」などと思いながら隣室での討議をただ聞いていたんじゃないだろうか。

それから、1928年6月か7月に、武漢へ帰りたい宋子文が蒋介石の配した監視者の目を盗んでこの家を夜中に抜け出すのだが、こっそりと抜け出せるような経路がない。家の前の道を通らずに思南路に出られるとは思えない。まさか庭の奥の隣家との高い壁を乗り越えて逃げたとも思えないし。監視者は相当に抜けた人間だったとしかおもえない。

などなど、宋慶齢、宋子文の笑いや涙、怒りや恐怖をも感じることができる邸宅にタイムスリップした僕は、あれやこれやと想像を巡らした。

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posted by osono at 18:40 | Comment(0) | 上海

2012年05月08日

真夜中の笑顔

もし人がやったのだったら「バッカじゃないの」と笑ってしまうようなことを時々やってしまう。

それを昨夜、やってしまった。

夜中の2時にホテルに戻ってきてエレベーターにルームキィーを差したが、部屋の階のボタンを押せない。

何度やってみてもダメである。

「OPEN」ボタンを押して扉を開きフロントに行く。

「このカギ、使えないんだけど」

フロント嬢(けっこうかわいい)はパソコンをパチャパチャ叩き、
「チェックアウト日を過ぎたから使えなくなりました」

(そんな馬鹿な)
と、思いつつもよ〜く考えてみれば、確かにチェックアウト日は今日だった(24時を過ぎているので、正確には昨日だった)。

1泊分追加の料金を訊くと、急な宿泊のためかえらく高かった。

でもしょうがない。今から路頭に迷うわけにもいかない。

フロント嬢は
「お仕事だったのですか。お疲れ様」
と笑顔で言いながら、キィーをつくってくれた。もちろん働いていたわけではなく、飲み歩いていたのに、である。

愛そうのないスタッフが多いウェスティンの中で、彼女の笑顔が見られたのがせめてもの救いなのであった。
posted by osono at 00:47 | Comment(0) | 上海