例えば論語ならば、小不忍則乱大謀(小さなことを我慢できないと、大きな仕事をし損じる)、
韓非子ならば、顧小利則大利之残也(小さな利を気にしていると、大きな利を失ってしまう)、
他にも淮南子の、遂獣者目不見太山(獲物を追うことに熱中していると、自分が巨大な泰山にいることを忘れてしまう)、
史記の、大行不顧細謹大礼不辞小譲(大きな行いをするためには細かいつつしみなど気にすることはない。大きな礼の前では小さな謙譲など問題にならない)、
などなど。ことわざで言えば「木を見て森を見ず」がそれに当たるが、いにしえの賢人たちがみなそう思うほどに、人が成功するための、もしくは失敗しないための真理なのだろう。また、賢人たちがそろってそれを言わねばならないと思うほどに、人は容易く小事にとらわれて大事を見失うということなのだろう。
ただ一方で、論語に記された数々の細々とした隣のジイサンの説教のような教訓は、「大事」か「小事」かのいずれかに分類するならばほとんど全てが小事に属するように思えるし、韓非子ならば、千丈之堤以螻蟻之穴潰(大きな堤防もオケラやアリの空ける穴が元になって壊れてしまう)と、「顧小利則大利之残也」とはほとんど逆の意味の言葉もあったりして、僕のような愚人は混乱してしまうのだが、賢人たちは「常に『大事』を考えよ。とはいえ『小事』を軽んじていいといっているわけではないぞ。勘違いするんじゃないぞ。そこの愚か者よ」と、おそらく言いたいのだ。
***
今からほんの80年ほど前。この賢人たちの教えに背いて大事を忘れ、小事に拘ったばかりに国を破滅に導いてしまった人たちがいた。
北京郊外の盧溝橋での小競り合いを契機に始まった日中戦争。その開戦から約半年後の1938年1月15日に、のちの日本の命運を決定づけることとなる「政府大本営連絡会議」が行われた。議題はトラウトマン和平工作を打ち切るかどうか。トラウトマン和平工作は歴史の教科書にも出てくるようだが復習すると、1937年11月に日本側より中国側に対してトラウトマン駐華ドイツ大使を通じて呈示した和平条件について、蒋介石を中心とする中国国民党政権は12月初旬に受諾を概ね決めるのだが、それを日本側に伝える前に南京攻城戦が始まってしまう。南京陥落を受けて日本側は和平条件をつり上げた。そこには、華北への自治政権設置、揚子江流域を含む広い範囲への非武装地帯の拡充、戦費賠償など、中国側が容易に受け入れることができない過酷な条件が加えられていた。中国側からの回答は当然に遅延し、そのため、日本政府は交渉打ち切りの是非を決める会議を開いた。
(このあたりのことは拙著「上海エイレーネー」に詳しいのであわせて読んでいただけると嬉しい)
会議の出席者の中で、中国側の回答を待つべし、と主張したのは多田駿参謀次長のみであった。多田参謀次長は、日本の軍隊はソ連および共産主義の南下に備えなければならず、中国との戦いは本来対ソ連・対共産主義のために温存すべき国力の浪費以外のなにものでもない、と考えていた。ために、中国との戦争は一刻も早く終わらせなくてはならないと強く思っていた。
同じ陸軍の中でも杉山元陸相は交渉打ち切りを主張し、蒋介石が屈服するまで作戦を進めるべきとした。
廣田弘毅外相も交渉打ち切りを主張する。廣田外相は、永い外交生活の経験に照らせば中国側に誠意がないことは明らかだとして、中国側の回答を待つべきだとする多田参謀次長に対して「外務大臣を信用しないのか」と詰め寄った。つまり廣田外相は、中国側は外交儀礼にもとるから交渉を打ち切るべき、との考えを採った。
米内光政海相は「参謀本部が外務大臣を信用しないのならば、それは政府不信任と同じことだ」と述べた。これはすなわち、内閣総辞職となるがそれでもいいのか、と多田参謀次長を脅したのだ。米内海相は、非常時に内閣が崩壊すれば一時的な混乱が生じるので、それを避ける政治的配慮をすべき、と考えたのである。
近衛文麿首相は議論の行く末を見守っていたが、優柔不断の看板を掲げる彼は最後には多数派、すなわち交渉打ち切り派についてしまう。この時、世論は南京陥落で沸き立ち対中国強硬論一色であったため、軟弱な姿勢を示すと間もなく開催される帝国議会を乗り切れず、へたをすれば国民が暴発しかねないという考えも近衛首相の頭にあったようだ。
この各人の主張を「大事」と「小事」に分類するとどうなるか。為政者の大事を「国民の幸福のために行うこと」と定義するとすれば、ソ連と共産主義の南下に備えるために対中国の戦争は止めなければならない、という主張は大事であろう。「ソ連と共産主義の南下に備える」というのが戦略的に正しいかどうかは別として、そこでは直接的に国民の利益が考えられている。
杉山陸相は多田参謀次長と正反対の主張をしたが、交渉打ち切り、対中戦争の継続が国民にとっての直接的利益であると考えたのだろうから、大事を唱えたと言ってもいい(ただ同時におそらく、自分の意見が採用されて始まった戦争を中途半端な形でやめられないとか、陸軍省の権益拡大のためとか、そういう官僚的な発想もあったに違いないけれども)。
一方で、「外交儀礼上無礼だから」とか、「内閣総辞職を避けるため」とか、「帝国議会を乗り切るため」とかいうのはいずれも小事といっていい。
多田参謀次長は必死に自説を唱えたが多勢に無勢であった。陸軍内の意見が割れているのだから首相や外相が多田参謀次長側につけばおそらく違う結果になったのに、首相、外相は中国の返事を待つべきではないと唱え、結局会議は交渉打ち切りに決し、翌日、近衛首相はあの悪名高い「国民政府ヲ対手トセズ」声明、すなわち蒋介石との和平交渉を今後行わないとする宣言を行ってしまう。
日本はこの時に破滅への道を歩み始めた。交渉を継続していれば最終的には中国側は日本側条件を受け入れていた可能性が高く、日中戦争はすぐに終結したに違いない。
大事が小事に負けてしまったのだ。その結果は国の破滅だった。小事にとらわれた人たちの罪はとてつもなく大きい。
***
為政者にとっての大事が国民の幸福であるとして、幸福にはいろいろな要素があるけれども、中でも為政者に期待されるのは国民の身体と財産に対する危険を可能な限り小さくして、健康と富の増強をはかることだろう。それ以外のことは全て小事に分類されるといっていい。小事も疎かにしてはいけないけれども、大事と矛盾する小事は捨て去らなければいけない。
現代のこの国や彼の国の為政者にあてはめてみるとどうだろう。当の本人に訊けば「全てが大事なことなのだ」と胸を張っていうだろう。でも、その「大事」は「大切」という意味であって、上で述べたような大事とは意味が違っている。確かにそれらはことごとく大切なことだろうけれども、大事と小事の対比においては、多くのことが大事ではなく小事であるようにみえる。
例えば靖国問題。訪問するほうにとっても、それを批判するほうにとっても、ものすごく大切なことなのだろう。「だろう」というだけでも叱られそうなくらいに双方ともに大切なことだと考えている。でも、少なくとも「国民の身体と財産に対する危険を可能な限り小さくして、健康と富の増強をはかる」という観点からは、訪問するほうにとっても、それを批判するほうにとっても大事とはいえない。
例えば竹島問題。何週間か前の日経の「風見鶏」に書いてあったのだが、「竹島の日」記念式典で自民党の竹下亘氏が行った「平和的な解決以外に私たちは道を持っていない」等の発言について、日経紙上で紹介したいと考えた同紙編集委員が、兄の竹下登元首相が右翼の攻撃に悩まされたこともあるので心配して、紹介していいかどうか確認を行ったところ、竹下亘氏は「住めるわけではないでしょ」と答えたのだそうだ。つまりは竹島の領有自体は(いずれの国にとっても)小事だということだ。周辺海域で操業する漁民の利益がより大事であり、さらなる大事はこの問題で両国が衝突し結果として両国民の健康や富が損なわれることのないようにすること、であろう。
例えば尖閣問題。こちらは周辺海域に埋蔵するといわれる資源の問題が絡むので多少ややこしくなるが、領土問題は存在しないとしているほうにとっても、核心的利益に属する問題だとしているほうにとっても、もしメンツの問題なのだとすればそれは小事とすらいえないほどに小さいことだし、外交儀礼上の問題や国民感情についても、トラウトマン和平工作打ち切りの事例を思い浮かべれば明らかなように、大事をなすべき為政者にとっては小事である。
この国も彼の国も、為政者には大事、すなわち「国民の身体と財産に対する危険を可能な限り小さくして、健康と富の増強をはかること」のみを強く意識し小事にはとらわれないことを心から願うのだけれども、政治家にとっては票、もしくは国民からの人気も大事であることを考えると、近衛首相のような過ち、すなわち国民の声を聞くがために判断を誤るということは容易に起こりうると思っておかなくてはいけない。
だとすると、国際関係における諸問題を解決する鍵は、我々国民ひとりひとりの手に握られているというべきなのかもしれない。我々国民ひとりひとりが、メンツとか相手が無礼だとか、過去の恨みとか、そういうことは(たとえそれがどんなに大切なことであっても)小事であるとしっかりと認識する。最近、特に尖閣諸島の国有化以降、小事にとらわれている人がめっきり増えたようだが、この国の歴史における失敗を思い出し、彼の国のいにしえの賢人の声を聞くことにより、大事を目指し小事にとらわれないようにする。それがいま我々がなすべきことではあるまいか。
この記事を「いいね!」と思った人も思わなかった人も、
何かを感じた時は是非ポチッと!↓↓↓
何かを感じた時は是非ポチッと!↓↓↓