2013年02月23日

孫中山故居記念館

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宋慶齢が住んだ家というのは中国のあちらこちらにあるが、上海の香山路・思南路交差点すぐそばにある洋館もそのうちのひとつ。慶齢がこの家をよく使ったのは孫文との結婚後すぐの20代から30代の若い頃だが、それはすなわち孫文の死をまたいだ時期なので「孫文が晩年をすごした家」と説明されることが多く、呼称も「孫中山故居記念館」である。

1930年前後にこの家が政治上の重要な舞台となったことが少なくなく、今書いている物語でここでの場面が出てくるので、自分の想像が正しいかどうかの検証のために見にいってみた。

ちょっとした驚きがいくつかあった。

まず、「孫中山故居記念館」で画像検索するとでてくる、玄関前に車を4台くらい停められそうな広いスペースを有する青みがかった灰色の洋館がそれだと思いこんでいたのだが、それは実は、当時はただのお隣さんだったのだそうだ。それを現在記念館として使用しており、故居へはこのお隣さんの建物を通って行くようになっているので、こちらのほうが画像検索で目立ってしまっている。

次に、家の中が意外なほどに小さいこと。1928年に国民党が武漢と南京に分裂しようとしていた時、蒋介石に近い人々が、フランスから武漢へ向かうために上海に立ち寄った汪兆銘をこの家にとどめて、共産党との決別を迫り連日説得するのだが、資料を読むとこの家に十数人が集まったようなのに大人数が一堂に会することができるような部屋がないのである。それぞれが8畳ほどのダイニングとリビングと書斎と寝室。プラス6畳ほどの小部屋。まさか庭で連日の会議を行ったということはあるまいから、リビングのソファセットに汪兆銘と反武漢側の長老格3人が座り、その他の人々はソファの後ろに立っていたのだろうか。その頃まだ若かった宋子文は間違いなくソファに座れなかっただろうけど、ソファの後ろにも立っていなかったにちがいない。彼はその時まだ武漢側でたまたま上海にいたのであり南京への寝返りを決断するより前だし、連日の会議中、彼は全然発言していないようなので、おそらくリビングの隣のダイニングルームのテーブルに一人座り、「あ〜あ。おれんちなのになあ。早く帰ってくれないかなぁ」などと思いながら隣室での討議をただ聞いていたんじゃないだろうか。

それから、1928年6月か7月に、武漢へ帰りたい宋子文が蒋介石の配した監視者の目を盗んでこの家を夜中に抜け出すのだが、こっそりと抜け出せるような経路がない。家の前の道を通らずに思南路に出られるとは思えない。まさか庭の奥の隣家との高い壁を乗り越えて逃げたとも思えないし。監視者は相当に抜けた人間だったとしかおもえない。

などなど、宋慶齢、宋子文の笑いや涙、怒りや恐怖をも感じることができる邸宅にタイムスリップした僕は、あれやこれやと想像を巡らした。

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posted by osono at 18:40 | Comment(0) | 上海