2012年12月20日

重慶抗戦遺址博物館へ(2)

蒋介石ら国民政府幹部たちの山間の疎開先、すなわち現在「重慶抗戦遺址博物館」と呼ばれている場所は、「カレンシー・ウォー
小説・日中通貨戦争」のいくつかの舞台のうちの一つである。

「1939年 重慶」の章では、

アーサー・ニコルス・ヤングの乗った車は、重慶市の東郊外の緑深い山間に入っていった。この曲がりくねった上り坂にさしかかると、ヤングはいつも、出口のない迷路に迷い込んでいくような感じがするのだった。

この道の先に、木々の間に隠れるように国民政府の中枢がある。いや、隠れるように、ではなく、まさに隠れるために政府はこの山奥に移ってきた。

四本の太い柱に支えられた重厚なゲートをくぐり、林の中に通された細い道を抜けると、霧に覆われた木々の中に十数棟の瀟洒な戸建てが点在する場所に出る。

ヤングの目には、この濃い霧に包まれた邸宅群が雲上の宮廷にしか見えないのだった。


等々の記述がある。

実を言うと、この場所を見ずにこれらを描いた。全くの想像で描いた。

グーグルの航空写真を見て風景を大まかにイメージし、ウェブ上に載っている写真を片っ端から見てそのイメージを固めた。そして当時の重慶について触れている古い文献を見てイメージを補強した。

しかし想像だけで描いているのでかなり不安で、実際に見て確認したかったのだが、尖閣問題の発生のために渡航を取りやめ、結局確認できずに出版に至ってしまった。

で、事後になってしまったけれども、その検証をしたのである。

検証の結果は……

我ながら、なかなか悪くない、と思った。それをちゃんと模写できたかどうかは文章力の問題であって、イメージはほぼちゃんとできていたようだ。

重慶抗戦遺址博物館へは、曲がりくねった道を延々と上っていく。路線バスが遅いせいもあるが、行けども行けども目的地に着かず、次第に高度が高くなり霧が深まっていく様は、まさに迷宮に迷い込んでいくかのようであった。

ようやくたどり着いた重慶抗戦遺址博物館は改修中で閉鎖されていたのだけれども、チケット売場にいたオバちゃんに「わざわざ遠くから来たのだから」と頼み込んでみた。

オバちゃんは、「建物には入れないわよ」と言いつつ、ゲートの中に入ることを許してくれた。

ゲートを抜けると、写真のとおり

深い霧に覆われた細い道が林の奥へと続いていた。
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それを抜けた先にはテニスコート二面程度の広場があって、広場を中心にして林の中にパラパラと戸建てが散らばっていた。霧のかかり具合、頬が引き締まる程度には冷たくそれでいて寒さを感じさせない気温、木々の間に二階建ての建物が見え隠れする様、各建物へと続く小道の曲がり方など、あたかも早朝の北軽井沢か蓼科の別荘地の中に立っているような感覚だった。
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宋美齢邸のバルコニー。ここにチェアを出してくつろぐ彼女を想像した


一方でイメージと少し違ったのは、各建物がそんなに大きくはないということ。宋美齢や孔祥熙などが豪邸に住んでいた様を想像したのだが、実際に見ると、高級ゴルフ・リゾートを取り巻く大きめの別荘、という程度の大きさだった。宋美齢が空軍の、孔祥熙が財政部の会議のためにも自分の家を使い、蒋介石邸は首相官邸としての機能も有していたことを思うと、むしろ狭いと言っていい規模の建物であった。

民衆が苦しむ中で贅沢をする国民党幹部、という雰囲気で描いたのだが、多分に共産党の宣伝に影響されていたかもしれない。

蒋介石邸が山の頂にあったということも、僕のイメージとは少なからず異なっていた。まるで天守閣のように、他の邸宅を見下ろすような位置である。作中では孔祥熙邸が最も大きいものとして描いたのだが、見たところ蒋介石邸のほうが、少なくとも床面積はずいぶんと広いように見えた。
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孔祥熙邸。孔祥熙と妻の靄齢はすぐに別の場所に引っ越し、そののちは娘の令俊がここに居住した


孔祥熙や宋子文が、その業績の割に中国での評価が低く、そのために日本であまり名前が知られていないという状況を憂い、そういった人たちに正当な評価を与えたいと思っているのだが、やはり共産党の評価に影響されているのかもしれない。

蒋介石邸へと続く霧の中の長い階段を見上げながら、物書きとしてこんなことではいけない、と大いに反省したのだった。



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posted by osono at 00:55 | Comment(0) | 著作