2012年07月22日

我は苦難の道を行く 汪兆銘の真実

日本の実質的傀儡政府である南京国民政府主席であった汪兆銘について、英才と称えられた少年時代から名古屋で不遇のうちに没するまでを描いている。

中国の近代について三部作を書くつもりで、うち二本を書き終わり、今、残りの一本を書いている。最初の一本は1937年7月から1940年2月まで、二本目は1938年2月から1942年12月までが主要な舞台であり、今書いているのは1926年11月から1935年11月までが舞台となる予定なのだが、各作品の主人公と準主人公を除けば、汪兆銘の名は、おそらくベストスリーに入るほどの頻度で作中に出てくる。登場人物としてではなく、主人公等による会話の中や、歴史背景の説明において名前が出てくるのだが、汪兆銘は近代の日中関係史において、それほどまでに重要な人物ということ。

この本をめくるまでは、汪兆銘で小説が書けるかも、と、少しだけ思っていた。

男前なんである。日本と中国において、彼よりも外見のいい歴史上の重要人物っているのだろうか。すずやかな目元と均整のとれた顔立ち、頼りがいのありそうながっちりとした身体。身長もかなりあるようだ。1927年10月に撮影された胡漢民、孫科と三人で並んで立つ写真を見ると、胡漢民より10センチ、孫科に比べれば20センチは身長が高いように見える。

頭脳明晰で、孫文の後継者の筆頭とも目され、一刻も早い日中和平が必要との考えから新政権の首領に就任した。しかし日本にいいように使われて最後は寂しく亡くなる。そんな悲劇的な一生も小説になるように思った。

しかしこの本を読んでいるうちに、その気は失せた。

この人、すぐに逃げちゃうんである。権力抗争に負けると、すぐにフランスに外遊に出てしまう。ものすごく逃げ足が速い。

この人、トップになりたい病だったんじゃないかと思えるのである。人民の生活水準の向上を目指していたというよりも、自分が政権の首領になることが全ての目標だったような感じなのである。1927年4月には蒋介石の誘いを断り、「労働者と農民の扶助が孫文の遺志だ」と大見得を切って共産党との合作を続ける国民党左派に合流するのだが、劣勢が明確になってくると、わずか3か月後に、虐殺とも言われる共産党の粛清を行ってしまう。

現代において「国賊」とされているのはあんまりだし、なかなか立派な人物だと思うのだけど、小説の主人公になるほどのヒーローでもない。

ちなみに汪兆銘を知るには「我は苦難の道を行く―汪兆銘の真実」もいい。


人われを漢奸と呼ぶ―汪兆銘伝
杉森 久英

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posted by osono at 11:35 | Comment(0) | 読書等