拙著『カレンシー・レボリューション』の原稿を校正しているとき、1920年代の中国通貨制度についての記述をバサっと落とした。物語が冗長になってしまうと思ったためなのだけれども、結構調べたのに捨ててしまうには惜しい気もするので、それをもとにして、近代中国通貨制度についてまとめて以下に記しておく。 |
1920年ころの中国では、銀貨、銅貨、紙幣が並行して使用され、そのうえ銀貨には両と圓、二種類の系統があり、紙幣は中央政府、地方政府、各種金融機関がほとんど規制を受けずに発行していた。
1.銀貨
(1)銀両
両は本来重さの単位であり、1両は同じく重さの単位である1斤の16分の1(現代の中国においては1両は1斤の10分の1)で、グラム換算では約37.3グラム。通貨の単位として両を使う場合、例えば、ある物品が約37.3グラムの銀塊と等価値である場合にその物品の金額は1両となる。すなわち銀両は「秤量貨幣」(ひょうりょうかへい。使用する際に重さや品質をはかって用いる貨幣)の単位。
取引に使用される銀塊は馬蹄形のものが一般的で、「銀錠」、「元寶」、欧米人には「sycee(細絲)」、日本人には「馬蹄銀」などと呼ばれた。
鋳造は中央政府ではなく、多数の民間業者によって行われていたので、形状も重量も品位(銀の含有量)も様々だった。清代においては、その最後の十数年間を除いて、銀両が本位通貨の地位にあったが、形状が携帯に適さず、品位にばらつきがあり、計量や計算に手間がかかる等の欠陥があった。
(2)銀圓
銀圓は「計数貨幣」(けいすうかへい。一定の重さと品質を持ち、使用の際に個数を数えるだけで用いることができる貨幣)の単位。1圓銀貨は一般的に「大洋」と呼ばれた。
大航海時代以降、ヨーロッパと中国の経済交流が深まるにつれ、海外の銀貨が中国に流入し、それらは銀錠と同様に秤量貨幣として使用された。外国銀貨は銀錠と異なり円形で使用しやすいこともあり、複数種類のものが普及したが、なかでも広く使用されたのが8レアル銀貨だった。8レアル銀貨は16世紀にスペインが、その植民地であり銀産国であるメキシコで鋳造を開始したもので、国際貿易において広く使用され、中国にも大量に流入していた。
清末に至り、自国鋳造の円形銀貨を発行すべきとの上奏が相次ぎ、1887年、両広総督(広東・広西両省の民政・軍政を統括する地方長官)張之洞の上奏が聴許され、「光緒元寶」が発行された。8レアル銀貨1枚が0.72両と等価だったので、光緒元寶1枚も0.72両となるよう鋳造された。すなわち1圓は0.72両と等価だった。その後、他の地方政府も銀貨発行を続々と手掛けるのだが、いずれも表面に光緒元寶と刻まれ1圓0.72両のレートが踏襲されたものの、各地でばらばらに鋳造がなされたため重量や品位にばらつきがあり、流通には計量が必要なときもあり、計数貨幣としての機能を完全に有しているとは言えなかった。
辛亥革命後の1914年、袁世凱政権下で「国弊条例」が定められ、ようやく形状・重量・品位の均一な銀貨が発行されることとなった(国弊条例で定められた計算方法によれば、1圓は純銀約23.98グラムと等価となる)。統一銀貨は広範に流通するようになり、本位通貨の地位も銀両から銀圓に移っていくが、契約書の建値や振替決済による取引などにおいて引き続き銀両も使われた。
(3)角
圓銀貨は一般的に「大洋」と呼ばれたが、それに対して少額銀貨は「小洋」と呼ばれた。単位は角である。張之洞は圓銀貨と同様に光緒元寶と表記した角銀貨を鋳造・発行した。
国弊条例のもとでは1角、2角、5角の3種が発行された。本来角は圓の10分の1を示す通貨単位だが、大洋の銀含有率が90%前後であったのに対し、小洋の銀含有率は70%程度と大きく品位が劣ったので、やがて1角は0.1圓以下の価値となり、圓と角との間で交換レートが建てられるようになった。つまり圓と角とは本位通貨と補助通貨の関係というより、あたかも異なる通貨間の関係のようになってしまうのである。
2.銅貨
以上は銀系の通貨だが、銅貨も広く流通していた。一般的に「制銭」と呼ばれる銅貨の単位は「文」で、1000文が1両に相当するとされた。清末になり制銭が不足がちとなり、円形無孔の新銅貨、「光緒通寶」が発行された。その表面には当初は100枚が1圓に相当する旨が刻まれ、銀圓の100分の1の価値の補助通貨であることが明示されたが、のちには、1枚は制銭10文に相当すると刻まれるようになり、銀圓の補助通貨という位置づけが曖昧になってしまった。銀貨と同様に各地方政府がばらばらに鋳造したため品質は一定しておらず、また、需給に従って銀圓との相対価格は大きく変動した。
3.紙幣
紙幣の状況も鋳貨に劣らず複雑である。
(1)外国銀行による紙幣発行
1850年前後より外国銀行の進出が相次いだが、これら外国銀行が活発に紙幣の発行を行った。外国銀行は治外法権の地位を有しているので、本国政府の監督に服するものの、中国の政府により規制されることなく勝手に紙幣を発行したのである。銀両建てで発行するものもあれば銀圓建てで発行するものもあり、その両方を発行する銀行もあった。それらのほとんどは銀系通貨だが、日本統治下の朝鮮の中央銀行である朝鮮銀行が発行した紙幣は金兌換券であった。その背景には、日本が中国東北地方への経済進出を深めていく中で、銀系紙幣よりも、日本円と同じ金系紙幣のほうが使い勝手がよかったいいということがある。
(2)民族系銀行による紙幣発行
1900年代に入ると、外国銀行に倣って民族系の商業銀行が相次いで設立され、それぞれが銀行券を発行した。また、伝統的な金融機関も発券を行うようになる。清朝が倒れ、ようやく紙幣発券規制が開始されるが、関連法令はほとんど順守されなかった。
(3)公的機関による紙幣発行
公的機関による紙幣発行については、各地方政府による発券が1900年前後より積極的に行われるようになった。各地方政府の発券機関は省銀行または官銀號などと呼ばれ、銀両建て、銀圓建て等各種紙幣を発行した。1904年には清政府が半額出資する戸部銀行が設立され、銀両建てと銀圓建ての紙幣が発行された。すなわち近代以降における中央政府による初めての紙幣発行である。戸部銀行は1908年に大清銀行と改称され、発行量を増やしていく。また清政府は1908年に交通銀行を設立し、銀圓建て紙幣を発行させた。辛亥革命後、大清銀行は中国銀行に改組され、交通銀行とともに発券業務が続けられるが、両行ともに兌換を義務付けられておらず、発行準備についての規制もなく、またそもそも、両行の銀行券発行の主目的は財政需要を賄うことにあったので、必然的に紙幣が乱発されるに至った。中央・地方政府発行の紙幣は、銀行券というよりも、財政資金調達のための、政府証券というべきものであった。
4.総括すると
以上のように、宋子文が広州の中央銀行行長に就任した1920年代半ばの時点では、中国の通貨制度は極めて乱雑な状態にあった。物価安定のために通貨発行量をコントロールするようなことはできず、各通貨間での両替にかかる手間は国民経済に大きな負担をかけていた。清朝は通貨制度が経済の根幹を成すなどという考えは全くもっていなかった。制度の整備を図ろうという意思はほとんどなく、通貨の発行は、それをやりたいものが勝手にやればいいというのが基本的な姿勢だったのである。通貨制度の混乱は、清朝が倒れて十数年が経っても大して改善されなかった。
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