で、どこまで書いたかというと、瓦氏夫人の夫、岑猛が死ぬところまで。
瓦氏夫人のことを紹介するといいつつ、ここまでは岑猛のことばかりを書いてきている。さてようやく瓦氏夫人の華々しく躍動感のある業績を書きたい、と思うのだけれども、実はまだどろどろした相続争いのことを書かなくてはならない。
岑猛の乱のあと、朝廷は田州を田寧と田州に分けることとし、田寧には流官(中央政府から派遣された官吏)を置き、田州は豪族の盧蘇が後見する岑猛の四男、邦相を土官とすることとした。ところが。。。
『明史』によれば、
邦相の兄邦彦(岑猛の次男)には芝という子があった。(岑芝は)祖母の林氏(岑猛の妾)と瓦氏と同居し、官より養田を与えられていた。その後、邦相は廬蘇(田州の有力な豪族)の専擅(せんせん。勝手にふるまうこと)を憎み、頭目の盧玉らと密かに謀り廬蘇と岑芝を誅殺しようとした。盧蘇は(事前に)これを知った。邦相は二氏(林氏と瓦氏のこと)の養田を削った。二氏は盧蘇と連合し謀議し、岑芝を梧州に走らせ、軍門(明朝の総督)に危急を告げさせた。また盧蘇は岑芝のために、人を使って邦相を刺殺してよいかと上疏した。邦相はこれを知り、刺客を殺害した。しかし盧蘇は伏兵を使って盧玉等を殺し、兵をもって邦相の家を囲み邦相を誘い出した。夜に乗じて瓦氏はこれを絞め殺した。
つまり、瓦氏は、田州を継いだ四男邦相に疎んじられていた豪族の盧蘇と組んで、邦相を排除し次男邦彦を擁立したのだった。
これが嘉靖13年(1534年)9月である。そしてその直後、これに不満の豪族たちが長男邦佐を擁立しようとするのだが、これは失敗に終わり、岑芝が田州を継ぐこととなる。
まだまだ続く。。。予定だったのだけれども、小説の方が書き終わったので、あとはそちらをご覧いただきたい。
『瓦氏夫人〜倭寇に勝ったスーパーヒロイン』
この記事を「いいね!」と思った人も思わなかった人も、
何かを感じた時は是非ポチッと!↓↓↓
何かを感じた時は是非ポチッと!↓↓↓