明代の田汝成による『炎徼紀聞』によれば、
正徳元年(1506年)、岑猛は太監(宦官の長官)の劉瑾に賄賂を贈り、偽造された詔勅を得て田州府同知(府行政のナンバーツー)の地位を得た。岑猛は田州の民を慰撫し、軍備を復興・強化し、周辺所領を徐々に侵食していった。自らの昇進も望み、軍功を重ね、知府(府行政の長官)の座を目指し、総督府に対し賊討伐軍の先鋒を願いでた。総督府や官軍の将校で田州に来る者があれば厚く賄賂を贈ってもてなした。岑猛を良くいう者ははなはだ多かった。江西の華林洞で叛乱があり、都御史の陳金は岑猛に討伐を命じた。岑猛の兵は沿路で劫掠をおこなった。民はみな村をでて避難した。(中略)賊は平定され、陳金は岑猛の功を認め、指揮同知(府軍事のナンバーツー)に昇進させた。
ところが、年号が嘉靖にかわったころから、歯車が逆回転をはじめる。
おなじく『炎徼紀聞』によれば、
希望の官職を得られない岑猛は、それを恨み傲慢になった。総督府や官軍将校は以前のように賄賂を得られなくなり、岑猛を誹謗するようになった。岑猛は軍備を拡張し周辺土官をしのぐようになり、常に周囲を憎しみの目で見て、恨みは報復しなければやむことはなかった。岑猛は莫大な蓄財をおこなっているといわれた。都御史の盛応期はその財の一部を欲した。岑猛が不遜な言葉を発したため盛応期は大いに怒り、岑猛は早晩必ず叛乱を起こすと上疏し討伐を請うたが朝廷からの回答はなかった。盛応期は転任し、都御史の姚鏌がこれにかわった。姚鏌は岑猛に反心がないことを知っており、挙兵を望まず、子の姚淶が書で討伐をしないよう請願した。そのころ巡按御史の謝汝儀と姚鏌は不仲であった。巡按御史は総督に謁見するとき掖門からはいらなければならないのに、謝汝儀は直接儀門からはいったことから姚鏌は謝汝儀に会わなかった。謝汝儀は大いに怒り、姚淶は書を岑猛から万金を得て書を書いたと虚偽の申し立てを行った。姚鏌は恐れ、岑猛討伐の上疏を行い、認められた。
姚鏌は八万の大討伐軍を田州に送った。
同時に、岑猛の妻、すなわち瓦氏夫人が岑猛に愛されておらず、瓦氏夫人の父岑璋が怒っているという噂を聞きつけ、謀略を企てる。
その謀略の内容は『明史紀事本末』に結構記されているのだけど、小説で詳しく書くつもりなので、ここでは省いておく。概略だけ記せば、岑璋が暗躍して、岑猛の次男邦彦が戦死し、また、八万の大軍を前にして田州府城を脱し帰順に逃げ込んだ岑猛も、岑璋によって毒殺される。
1526年の事件である。瓦氏夫人は20代なかばを過ぎたばかりで未亡人となってしまったのだった。
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『瓦氏夫人〜倭寇に勝ったスーパーヒロイン』
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