多少長いので項目建てすると。。。
(1) 岑𣿰による田州簒奪
岑猛の生まれは1489年らしい。瓦氏夫人の10歳上。
4歳の時、彼の健全な発育に悪影響を及ぼしたに違いない、ひどい事件が起きる。
父親の田州府土官岑溥が、猛の兄、猇により殺害されたのだ。
父岑溥ができの悪い長男・猇や次男ではなく、幼児の三男・猛にあとを継がせようとしたため猇は怒り、父殺しの挙にでたようだ。
岑猇は土目(地元の有力者。豪族)の黄驥と李蛮に殺された。
結局土官の地位は岑猛が継ぐのだが、あまりにも幼すぎた。田州に隣接する思恩州の土官で、かつ、猛のとおい親戚でもある岑𣿰に田州を乗っ取られてしまう。
そのあたりの経緯を明代の田汝成による『炎徼紀聞』は次のように記している。
弘治6年(1493年)9月、(父親の)愛を失った猇が右江で溥を弑した。土目の黄驥と李蛮が兵を発して岑猇を誅した。
まもなく黄驥と李蛮の関係に溝ができた。黄驥は岑猛を(両広総督府が置かれている)悟州に逃がした。総督は、岑猛が岑溥の官を世襲し田州を統治すべき、と上奏した。兵備副使の汪溥は李蛮が命に従わないことを懸念し、思恩知府(知府は府の長官のこと)の岑𣿰に兵をもって岑猛を護るよう命じた。岑𣿰は大軍で両江(右江と左江)を進んだ。黄驥は岑𣿰に賄賂を贈り、岑猛は黄驥に土地を分け与えることを強要された。(岑𣿰と黄驥)は共謀し、岑猛は従わざるを得なかった。岑猛は田州に入ったが、李蛮による妨害に遭い、黄驥は再び岑猛を思恩に逃がした。
弘治11年(1498年)、都御史のケ廷瓚は岑𣿰に岑猛を帰国させるよう命じたが、岑𣿰が従わなかったので、副総兵の欧磐と布政使の程廷珙に討伐軍をおこすよう要請した。岑𣿰はようやく岑猛を解放した。総督府は岑猛に田州を与えた。岑𣿰と岑猛の間に溝ができ、両者の和解は不可能だった。
同年7月、岑𣿰は田州に侵入し李蛮を殺害した。
弘治15年(1502年)10月。岑𣿰は田州を落とした。岑猛は逃走した。岑𣿰は一族の子の岑洪に田州を守備させた。
『明史 列伝第206』は思恩についての記述中で以下のように述べている。
弘治12年(弘治6年の間違いだろう)、田州土官の岑溥が子の猇に殺され、猇も死んだ。
次子(三男の間違いだろう)の猛は幼く、頭目の黄驥と李蛮は不仲だったので、総督府は岑𣿰に徴兵して猛を護るよう命じた。黄驥は岑𣿰に厚く賄賂を贈り、かつその娘を献じて、かつ土地を分与することを約束した。岑𣿰は兵を黄驥の側につけて、岑猛を田州に送った。しかし岑猛は(李蛮の妨害により田州に)入ることができず、岑𣿰のところに長くとどまらねばならなかった。
総兵諸官は岑𣿰をなだめて、岑猛に知府を世襲させようとした。岑𣿰は土地分与の実行を求めたが、得られず、怒って、泗城と東蘭の二州と盟約して田州を攻撃し、万人を殺害し、城郭は廃墟と化した。岑𣿰の兵二万は田州に拠って、竜州の印綬を劫掠し、元知府の趙源の妻である岑氏を得た。総兵官は田州に赴き調査を行った。黄驥は恐れて、岑𣿰のもとに匿われた。それに先立ち、岑𣿰は丹良庄に城を築き、兵千余を駐屯させ、水運を抑えて商業利益を独占した。官はこれをやめるように命じたが、(岑𣿰は)聞き入れなかった。官軍は田州からの帰還中途の機会に乗じてその城を破戒しようとしたが、岑𣿰の兵が拒み、官軍20余人を殺した。官軍はこれを破り、地元兵9人を捕らえた。総兵や巡按(御史)等の官は岑𣿰の罪を問うよう請願したが、参政の武清は岑𣿰より賄賂を受けて、枉げてこれを擁護した。
岑𣿰の従弟の業は幼少のころから宦官として京师に上がり、大理寺副三司に任じられている。総兵は、岑業を説諭に赴かせる勅命を願ったが、兵部は、岑𣿰は極悪であり岑業は諭の責を果たせないので、岑𣿰を招いて軍門のもとに至らせるよう総兵と巡按に勅命し、朝廷の威徳によって説諭し、その悪行の罪を問い、侵略地、劫掠した印綬、官おと私人の財物を返還させ、もって許すべき、とした。総督のケ廷瓚は「岑𣿰は数度の慰撫に服しませんでした。官軍と地元兵それぞれを編成することをお許しください。(岑𣿰を)捕らえて審問し、もし兵を集めて反抗するようなら、この機会に討伐し、田州土官の岑猛に一部を治めさせ、辺疆を鎮めます」と上奏した。
弘治16年(1503年)、総督の潘蕃は「岑𣿰は僭越にも謀叛をおこしたので、兵をもって討伐すべきです。岑𣿰の従弟の業は山東布政司参議として内閣で勅書事務に就いており、機密に触れる地位にあるので、秘密漏洩の恐れがあります」と上奏した。吏部が(岑業を)異動させようとしたが、岑業は休職を請願して去った。
弘治17年(1504年)、岑𣿰は上林、武缘等の県を劫掠し、死者の数は数えられないほどだった。また田州を攻め破った。岑猛は身ひとつで逃げ、その家族50人が掠された。
田州陥落の年は資料によりばらつきがあり特定が困難だが、最も遅くて1504年であり、つまりその時岑猛はまだ15歳、もしくはそれにも満たなかった。
(2) 岑𣿰討伐
弘治18年(1505年)、明朝は岑𣿰討伐を実行する。
『明武宗実録 巻2』によれば、
思恩府土官の岑濬が乱をおこし、これを平定した。
岑氏は思恩を世襲し、濬の代に至って府の政治をほしいままにした。不法に兵をおこし糧食を貯えて、万の人を殺戮し、田州を攻めた。府を治める土官の岑猛は城を棄てて遁走した。官吏は何度もこれを宥め諭したが、増長するばかりだった。
両広総督左都御史の潘蕃と太監の韋経、総兵官の毛鋭等は討伐を請い上奏し、両広の漢達官の軍、左右両江の土目の兵および湖広官の軍あわせて108000余で、6方から攻めた。副総兵毛倫と右参政王璘は慶遠から、右参将王震と左参政王臣、湖広都指揮官缨は柳州から、左参将楊玉と監事丁隆は武縁荒田から、都指揮金堂と兵備副使姜绾は上林から(那学通感?)、都指揮何清と右参議・玺は丹良から、都指揮李铭と泗城州土舍岑接の兵は工堯から、それぞれの道をとり、共同して要塞を攻めた。賊は兵を分けて険要の地に拠って戦った。わが軍は勇を奮って前進し、断崖を登って進入した。濬の勢いは収縮し、旧城へ逃げ込んだ。諸軍は合同してこれを囲み、その外城を破り、内城に肉薄しこれを激しく攻めた。濬は死に、城中の者によりその首が軍門に献じられた。続けて思恩も平定された。斬首は約4790人、捕らえた者は男女約800人だった。思恩府の印二つと向武州の印一つを得た。兵が入ってから撤兵まで一ヶ月を越えなかった。
戦勝を聞き、帝は蕃らの功を認め、詔書を下して労った。勝者それぞれの昇格が慣例どおり上奏された。その後、広西右布政の馮鎬が赴任した。上述の事件の前に、徴発された土兵が任地への往復の道で所構わず殺戮略奪を行い、その害は岑濬よりも悪いほどだった。法に反するものはこれを罰するという法度を明示し、および、以後土兵を安易に徴発することを上奏することがないよう兵部に望む。
(3) 岑𣿰の乱の戦後処理
岑𣿰の乱平定後の処理について、『明武宗実録 巻四』は次のように記している。
兵部は討議し、両広巡撫等の官は上奏を行った。「思恩府土官知府の岑𣿰は謀叛をおこしたため誅しました。再び(土官を)任用するべきではありません。今後、田州府土官知府の職を岑猛に世襲させることは非常によくありません。府の統治を失敗したのです。降格させるべきでしょう。岑猛を千戸に降格させ福建沿海衛に就かせ減給するのがよろしいでしょう……」
岑猛は田州土官に返り咲くことができなかったのだ。
(4) 田州府同知に
岑猛は朝廷より福建省の沿岸警備の任に就くよう命じられたが、それを拒否し田州に居座って、新任の田州知府の田州府入りを妨害した。そして、宦官の劉瑾に対して賄賂を贈り、田州への復職を強く請願した。
多額の賄賂が効いて、先の発令は覆され、岑猛は田州府同知に任じられた。同知とは知府に次ぐ府の次官職である。
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『瓦氏夫人〜倭寇に勝ったスーパーヒロイン』
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