1547年5月4日。4隻の遣明船が五島の奈留島を出帆した。当初は順風に乗って順調な航海と思われたが、同月9日より雲行きが怪しくなり10日に暴風雨に巻き込まれた。そして4隻のうちの3号船が他の船とはぐれてしまう。南に流された3号船は温州沖で海賊の襲撃に遭い、死者数は89人、実に乗員の約半数が命を落とした。
満身創痍の3号船は北上し、先に無事寧波沖に到着していた1、2、4号船と合流。6月1日、4隻揃って寧波の外港(現代の鎮海)に入った。ここから寧波へは甬江を遡って1日の距離なのだが、使節は先へ進むことを許されなかった。明国政府は「十年一貢の法度に反している」として入貢を認めなかったのだ(日本による直近の入京は1540年でそれから7年しかたっていなかった)。
遣明使節一行は定海で30日間粘ったが、ついには退去を命じられる。はるばる日本からやってきて、海賊に遭遇して多くの命を失い、それなのに上陸すら許されない。まったくもって踏んだり蹴ったり。
しかし、帰れと言われておとなしく帰るわけにもいかない一行は、貢期に至るまでどこかで待たせてほしいと駄駄をこねた。明国政府はやむを得ず、舟山群島の小島、嶴山にとどまることを許した。
現在、嶴山は舟山島と橋でつながっており簡単に行くことができる。定海のバスターミナルのすぐそばにあるバス停から30分に一度程度の頻度でバスが出ている。でも当時はむろん橋などなかったし、一行は、島から出ることができるのは米、塩、薪、酒などを舟山に調達しにいく時のみに限られていた。上の地図のとおり、周囲十キロ程しかない小さな小さな島だ。むろん娯楽はなにもない。そのうえ男ばっかしである。この逗留は結局八ヶ月にも及ぶことになるのだが、さぞ辛かったことだろう。
一行が寧波の地を踏むのは翌年3月9日。その後半年以上待たされ、10月6日に寧波を離れ北京に向かい、翌4月18日に北京に着いた。
五島奈留島を出立した時から数えれば実にほぼ2年が過ぎて、ようやく崇文門をくぐったのだった。
遣明船の嶴山滞在について、 詳しくは→ |
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