2015年03月22日

岑港と善妙

歴史の授業でも習ったように日本と寧波との関係は古く、そのため、寧波沖の舟山群島にも歴史好きには興味深い観光スポットが多数ある。

例えば岑港。


1557年(嘉靖36年)、豊後の大友宗麟(義鎮)は、明国の海禁政策(対外貿易等の禁止令)が緩められるとの情報を得て、寧波に貿易船を送った。

『明世宗実録』によれば、「義鎮亦喜即装巨舟 遣夷目善妙等四十余人随直等来貢市 以十月初至舟山之岑港泊焉」。つまり、大友宗麟は明と貿易ができると聞いて喜び勇んで巨船をつくった。派遣されたのは善妙ら40余人。倭寇の頭目で明政府の招撫に応じ明へ戻る決心をした王直とともに明へ渡り、1557年10月初に舟山に至り、岑港に泊した。

岑港は舟山島と里釣島との間の水道を臨む港。実際に自分の目で見てみると、舟山島と里釣島との距離はわずか100メートルほどしかなく、両島の間は曲がりくねった内陸河川のようだった。

「岑港倭凡五百余人於三十六年十一月随王直至求市易及王直被擒見官兵侵逼焼船」。つまり、王直の配下なども加わった500余人が岑港において交易を求めたが認められず、それどころか王直は捉えられてしまい、善妙らも海賊の一味とみなされて、船は官兵によって焼き払われてしまった。

ひどい話だ。貿易をしにきただけなのに。。。船が焼かれたということは積んできた荷もみな焼けてしまったのだろう。

海賊とみなされたのならば、捉えられればおそらく処刑される。一行は、逃げた。

善妙がなにものなのか、はっきりとはわからないのだけれども、遣明船の代表はたいてい僧侶が務めるので、おそらく彼も僧侶だろう。善妙という名はいかにも僧侶っぽいし。

しかしこの人、タダの坊主じゃない。

「海峰遂絶与倭目善妙等 列柵舟山阻岑港而守 官軍四面囲之」。つまり、王直配下の毛海峰と善妙は二手に分かれ、防御柵を並べ、官軍に完全包囲されながらも徹底抗戦の姿勢を示した。

わずか500人で、おそらくは数万人規模の官軍に抵抗し得たということから考えれば、彼らが立て籠もった場所はおそらくは岑港沖に南北に連なる3つの小島(北から富翅島、里釣山、外釣山)のうちのいずれかであり、そこでゲリラ戦を展開したのではなかろうか。外釣山の海岸では明代の鉄砲や大砲の弾丸等が出土しているが、それらはきっと、この時の戦いで遺されたものに違いない。

善妙らは半年以上に及ぶ籠城戦ののち、官軍の包囲を抜けて舟山島の北岸の柯梅に移る。そこで船の建造を行い、同年11月に複数の船が完成、同月13日に出帆した。名将兪大猷らの攻撃を受けたが、船団の末船が捉えられただけで、舟山脱出に成功する。

と、これだけでも驚きなのだけれども、まだ続きがある。

善妙らは東方、すなわち日本へは向かわなかった。南へ舵をとり福建省の嶼に至った。嶼は密貿易の拠点であり、日本で販売するための商品をそこで買い入れたのだろう。

でも、日本から持ってきたものは官軍にみな焼かれてしまったはずであり、いったいどうやって買い付けたのだろうか。岑港では船荷は失ったものの銀貨などは持ち出せたのか。それともひょっとしたら、舟山の柯梅あたりで掠奪をして、それを原資としたのか。。。


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posted by osono at 17:50 | 華東(蘇州、南京、杭州等)