2016年07月25日

小野寺信・百合子夫妻と鄭蘋茹

NHKで7月30日に小野寺信・百合子夫妻のドラマが放映されるそうで(終戦スペシャルドラマ 百合子さんの絵本〜陸軍武官・小野寺夫婦の戦争〜

ドラマでは夫妻の終戦間際のスウェーデンでの諜報活動が中心に扱われるようだけど、太平洋戦争開戦直前には小野寺信は単身赴任で上海にいて、日中間の和平工作に従事していた。小野寺はこの上海駐在中も十分にドラマになり得るような活動をするのだけど、そのあたりのことを拙著「上海エイレーネー」のなかで結構詳しく書いた。

小野寺が上海に赴任した経緯について、「上海エイレーネー」P198から引用してみると。。。
 一九三八年十月には、陸軍の小野寺信中佐が上海に着任し、いわゆる小野寺機関を立ち上げた。
 小野寺はロシア畑の人間で、バルト三国の公使館付武官を勤めたのち、六月より参謀本部ロシア課に勤務していた。
 ソ連および共産主義の南下に対する防衛は日本にとって極めて重要な課題で、中でもロシア課では危機意識が強く、ロシア課は、中国との戦いは本来対ソ連・対共産主義のために温存すべき国力の浪費以外のなにものでもないと考えていた。しかし参謀本部の支那課中心で進められてきた和平工作は遅々として進まない。未だなんら成果を得られないうちに開戦より一年以上が経ってしまっており、ロシア課の危機意識は大きくなる一方であった。
 ロシア課は、一刻も早い中国との戦争終結を目指し、自らも中国関連情報を収集・分析する機関を持つことが必要と考えた。そこで、欧州駐在により国際情勢に対する感覚も磨いていた小野寺を上海に送り込んだのである。


小野寺の容姿について、「上海エイレーネー」の主人公趙靄如は
 小野寺の丸い顔は、四十を過ぎた年齢には全く似つかわしくないくらいに幼く見えた。丸い眼鏡と丸い体型も相まって、なんだか愛嬌のある人だ、と靄若は思った。
と言っている。

小野寺は上海着任時、「日中和平実現を目指せ」との命を受けてはいなかったが、上海赴任直後から約9か月にわたって積極的な和平工作を行った。小野寺は約50年ののちに自分の一生を振り返って妻百合子に向かって「あれほど心血を注いで張り切って働いたことはなかった」と語っており、すなわち彼にとってこの時期はNHKがドラマにするスウェーデン時代以上に熱い日々だったようだ。

その小野寺がなぜ「上海エイレーネー」にでてくるかというと、この小説の主人公のモデル、鄭蘋茹(ZhenPingru・テンピンルー)が小野寺が上海で立ちあげた小野寺機関で一時期通訳や翻訳のバイトをしていたから。鄭蘋茹は日本軍の情報が欲しくて小野寺に接近し、小野寺も鄭蘋茹がスパイであると知りつつも、中国国民政府への橋渡しをしてくれれば、と期待して彼女を雇用した。鄭蘋茹はバイトでありながらも結構大事な仕事もしたようで、軍事委員会調査統計局(国民政府の特務機関)の実質的なトップである戴笠(ダイリー)を小野寺に紹介したりもしている。小野寺は蒋介石の側近である戴笠に会えば蒋介石への直接交渉の道が開けると考え喜んで会ったが、実際にはその男はニセモノだったようだ(鄭蘋茹は事前にニセモノであることを知らなかったようで、つまり彼女も騙されていた)。

小野寺は蒋介石との直接交渉によらねば戦争の回避はできないと考えたが、汪兆銘を中心とする傀儡政権立ち上げによる和平をめざす同じ陸軍内の支那課と対立する。支那課の中心人物が謀略の天才、影佐貞昭(自民党の谷垣禎一さんの母方祖父)で、小野寺と影佐の間で熾烈な戦いがあって、鄭蘋茹もそれに巻き込まれる。結局小野寺が影佐に負けるのだが、このときもし小野寺が勝っていれば、その後に破滅に向かった日本の歴史は大きく異なるものとなっていたに違いない(ちなみに「上海エイレーネー」のなかでは、この二人の争いのとばっちりで主人公は恋人と別れることになる)。

aaaa.jpg小野寺と影佐の活動以外にも複数の和平工作が上海を舞台に行われ、それは壮大なドラマなのだけど、そのあたりは拙著「上海エイレーネー」に結構詳しく書かれているので、ぜひご一読を。

あ、そうそう。NHKドラマの主人公、小野寺信夫人の百合子も「上海エイレーネー」のなかにでてくる(P298〜P299)。夜中にこっそり家を抜け出したことが夫にばれるのだが、実はその時百合子は夫の和平工作成功を祈って目黒区八雲の氷川神社にお百度参りに行っていた(この挿話は百合子手記に基づく史実)。

posted by osono at 10:48 | 著作

2016年07月06日

瓦氏夫人(5)

3ヶ月ほどほかのものを書いていたので瓦氏夫人についての記事が滞ってしまった。

で、どこまで書いたかというと、瓦氏夫人の夫、岑猛が死ぬところまで。

瓦氏夫人のことを紹介するといいつつ、ここまでは岑猛のことばかりを書いてきている。さてようやく瓦氏夫人の華々しく躍動感のある業績を書きたい、と思うのだけれども、実はまだどろどろした相続争いのことを書かなくてはならない。

岑猛の乱のあと、朝廷は田州を田寧と田州に分けることとし、田寧には流官(中央政府から派遣された官吏)を置き、田州は豪族の盧蘇が後見する岑猛の四男、邦相を土官とすることとした。ところが。。。

『明史』によれば、
邦相の兄邦彦(岑猛の次男)には芝という子があった。(岑芝は)祖母の林氏(岑猛の妾)と瓦氏と同居し、官より養田を与えられていた。その後、邦相は廬蘇(田州の有力な豪族)の専擅(せんせん。勝手にふるまうこと)を憎み、頭目の盧玉らと密かに謀り廬蘇と岑芝を誅殺しようとした。盧蘇は(事前に)これを知った。邦相は二氏(林氏と瓦氏のこと)の養田を削った。二氏は盧蘇と連合し謀議し、岑芝を梧州に走らせ、軍門(明朝の総督)に危急を告げさせた。また盧蘇は岑芝のために、人を使って邦相を刺殺してよいかと上疏した。邦相はこれを知り、刺客を殺害した。しかし盧蘇は伏兵を使って盧玉等を殺し、兵をもって邦相の家を囲み邦相を誘い出した。夜に乗じて瓦氏はこれを絞め殺した。


つまり、瓦氏は、田州を継いだ四男邦相に疎んじられていた豪族の盧蘇と組んで、邦相を排除し次男邦彦を擁立したのだった。

これが嘉靖13年(1534年)9月である。そしてその直後、これに不満の豪族たちが長男邦佐を擁立しようとするのだが、これは失敗に終わり、岑芝が田州を継ぐこととなる。

まだまだ続く。。。予定だったのだけれども、小説の方が書き終わったので、あとはそちらをご覧いただきたい。



posted by osono at 14:44 | 著作