2016年06月07日

高鉄(高速鉄道)利用のススメ

(このブログ。どういうわけか高鉄(中国の高速鉄道)関連の記事のアクセス数が多いようなので……)

image.jpeg先日、上海で空き時間ができたので、上海→天津→山海関→天津→南京→上海 とまわってきた。

すべて高鉄利用だったのだけど、やっぱり飛行機より高鉄のほうがいいよね、と僕は思った。

◆料金は、ディスカウント・チケットを使うのならば飛行機のほうが多少安い。例えば上海から天津まで、6月8日の場合、吉祥航空ならナ、ナ、ナント350元。500元代の便も多い。ノーマルならおそらく1370元。高鉄は2等が516.5元、1等が869.5元、特等座が982.5元、商務座が1623.5元。

◆しかし高鉄には、僕の経験では、遅延がほとんどない。国内線が遅れる確率はどうだろう。50%と言っても言い過ぎではないと思う。中国国内線で飛ぶ日の夜に会合は入れてはいけない。信用を無くすことになる。そういえばずいぶん昔に上海での夜の会合に間に合うように深圳発14:30発の飛行機に乗るはずだったのに、翌朝4時過ぎに上海に着いたというブログを書いたことを思い出した。
 ロスト in 深セン(1) http://osono.sblo.jp/article/60412594.html
 ロスト in 深セン(2) http://osono.sblo.jp/article/60412475.html
 ロスト in 深セン(3) http://osono.sblo.jp/article/60412535.html
 ロスト in 深セン(4) http://osono.sblo.jp/article/60412591.html
 ロスト in 深セン(5) http://osono.sblo.jp/article/60412530.html
 ロスト in 深セン(6) http://osono.sblo.jp/article/60412500.html

◆高鉄の駅は空港に比べてダウンタウンに近い。上海虹橋站は例外で、空港と駅とがくっついているのでどちらも変わらないけれども、たいていの都市では駅のほうが空港よりアクセスがずっと便利。天津站なんて市のほぼ中心だし、天津西站も地下鉄ですぐ。市内から南京空港へ地下鉄でいくためには、南京南駅で乗り換えなければならない。

◆僕が高鉄がいいと思う一番の理由は、特等座がとっても快適であることだ。商務座のシェルフラット・シートはすごく楽だけど、やっぱり料金がちと高い。飛行機のディスカウントチケットの2倍以上と思うと躊躇してしまう。一方で特等座。シートは1等とほぼ同じ(日本の新幹線のグリーンとほとんど同じ)だけど、列車編成の最前部または最後部の細くなっている部分のためだろう、2人掛けシートと1人掛けシートの横3列で、1人で予約すればたいてい1人掛けシートが割り当てられるので、隣の席の人にわずらわされることがない。特等座のエリアは他のエリアとガラスで仕切られており、座席数は8席または9席しかない。空いていることが多く(自分ひとりしか乗っていないことも少なくない)、いつも非常に静かだ。それなのに料金が1等とほとんど変わらない。加えて、電源がある。飛行機と違ってインターネットも使えるので、PCを使ってばっちり仕事もできる。

◆所要時間は、上海から天津へ行っても時速300km超で突っ走るので5時間台。5時間なんて、パソコン使って原稿を書いていれば一瞬だ。

◆そしてなにより、鉄道ならまず死ぬことはないという安心感。事故があっても乗客全員が死ぬなんて考えられない。一方で飛行機なら、落ちればまず死ぬ。

5才の息子のために、僕はまだまだ死ねぬ。

posted by osono at 01:20 |

2016年06月04日

南京美麗宮の夕陽とリース=ロス・蒋介石会談

P5250286.JPG1935年中国幣制改革をサポートするためにロンドンよりやってきた英大蔵省のフレデリック・リース=ロスが自叙伝“MONEY TALKS”のなかで、仕事を終え中国を離れる直前に蒋介石と会ったときのことを次のように書いている。

I found him sitting on a very ordinary kitchen chair, in the garden of his villa at Nanking, watching the sun set, completely relaxed. After greeting me, we went inside......


P5250293.JPGこの部分を読んで、いま書いている長編のなかでこのシーンを再現したく思い、さっそく南京の蒋介石官邸「美齢宮」へ行ってみた。

紫金山の麓にある美齢宮は緑に覆われており、美麗がプライベートで使いまくっただろうビュイック(上から一番目の写真)や、夫婦の寝室(上から二番目の写真)、数々の要人との会見を行ったという応接室(上から三番目の写真)などがあり、大変興味深かったのだけど、一通り見終わったあと「あれ?妙だぞ」と思った。


P5250287.JPG建物二階の南側に接客用のダイニング・ルームがあって、その南側に大きなバルコニーがあるのだけど、そこに椅子を置いてのんびりと夕陽を眺めている姿を想像することができないのだ。このリース=ロスと蒋介石との会見は1936年6月上旬で、太陽が一年で最も北寄りに沈む頃だ。すると、バルコニーの西側の角で乗り出すようにしないと建物に隠れて日没が見えないはずなのだ。おかしいぞ。

外から建物の西側部分を見てみると、三階に小さめのバルコニーがあるようだ。「なるほど。あそこかぁ」と思って三階に戻ってみたのだけれども、バルコニーにつながっている部屋は公開されておらず、バルコニーの様子を確認することはできなかった。

P5250301.JPGそれにしても妙なのは、三階は蒋介石、宋美齢のプライベートなエリアであるようなのに、来客を三階のバルコニーに招き入れたようだということ。三階の西向きのバルコニーからは紫金山の緑の中に沈んでいく美しい夕陽をバッチリ見られただろうし、リース=ロスが「全く普通のキッチンの椅子に座っていた」と表現しておりプライベートのキッチンから椅子を引っ張り出してきたと思われることから、上記のシーンが三階バルコニーであったことは間違いなさそうなのだけれども。

そんなことを考えつつ一階に降りて建物の全体図(上から四番目の写真)を見ると、三階の開放されていない部屋にはどうやら応接セットが置かれていたようだ。

蒋介石は、来客を寝室もあるプライベートなエリアに入れて、美しい夕陽を見せ、そのあとにバルコニーのすぐ横の応接セットで会見をすることにより、来客の心をがっしり掴む演出をしていたのかもしれない、と想像を膨らませてみた。

image.jpegところで美齢宮、空から見た姿がすごい。上から五番目の写真は古い空撮写真らしい(色は着色したのかな)。緑の屋根の美齢宮と道路と街路樹とを空からみると、緑の宝石を飾ったネックレスのように見える(ネットで「美齢宮」で画像検索すると街路樹だけが黄色くなったネックレスとしかいいようにない写真が載っており、思わず「すげぇ」と言いたくなる)。たまたまなんじゃないの、とも思うけれども、美齢宮が竣工した1934年といえば中国空軍の黎明期であり、宋美齢は1936年に中国空軍の責任者に就任していることから、美齢は飛行機好きで、そんな美齢のために蒋介石が空から見てみなければわからない仕掛けをした、ということは十分に考えられる。

(ちなみに冒頭のMONEY TALKSの一節。そのあと、美齢の通訳がうさんくさいという話につながっていく)
posted by osono at 17:15 | 著作

2016年06月02日

山海関

いま書いている長編のオープニングを河北省山海関に設定したので、ちょこっと行って見てきた。

物語では1935年に中国で実施された通貨制度改革を扱っている。当時アメリカでは、銀算出業界の要請に応じて大統領が銀価格を吊り上げていた。銀本位制度を採用していた中国では銀価格が上がればそれに並行して自国通貨高となる。極端な元高が発生し、ために中国はひどい不況に陥っていた。そこで銀の輸出に課税して銀の国内価格を海外での価格に比べて安く抑えることにした。銀の国内価格は国際価格の約半分となった。その結果、密輸が横行した。

その銀密輸の舞台となったのが山海関。山海関の北側はもう満洲国で、日本人も中国人も、せっせと銀貨や銀塊を満洲国へ持ち出した。小さめのトランクに2000枚の銀貨(だいたい50kgくらいになる)を詰めて国境を越えれば、銀貨1枚=1元は現代の日本円で1000〜2000円の価値があったので、トランク1個で数百万円相当の儲けになった。

山海関の長城の北側には満洲中央銀行の支店があった。密輸されてきた銀を買い取るために設置された支店である。一国の中央銀行が密輸に加担していたんだから、まあひどい話だ。

image.jpegさて、山海関はちょっと前まで万里の長城の東の端っこといわれていたところ(いまは遼寧省の虎山長城が東端とされている)。写真は長城が海に落ちる老龍頭で、すなわち東の端っこの山海関のなかの東の端っこ。海にはみ出して長城がつくられている。


image.jpegで、で、でかいね。まさに中国という感じ。写真は山海関の正門ともいうべき「天下第一関」。老龍頭から5kmほど内陸になるのだけど、むかしは老龍頭からここまで長城が連なっていた。


image.jpegそして山海関駅。満洲国との境の駅ということで数々の小説にも描かれている。おそらく駅も線路も場所は1930年代から変わっていない。張作霖も爆殺される直前にこの駅に立ち寄ったはず。『カレンシー・ウォー』を書いている時に読んだ資料の中に、1938年に大蔵省の財務官以下3人が北京へ赴任するため山海関駅に立ち寄り、税関検査のために荷物をいったんプラットフォームにおろしたら、汽車が走り出して焦った、ということが書いてあった。そんな事件もこの写真の奥のほうに写っているプラットフォーム上でのできごとだ。

冒頭で、(山海関に)「ちょこっと行って見てきた」と書いたけど、つまりは日帰りで行ってきたということ。僕は結構汚いところへも平気で行けるけど、夜寝るところだけはきれいなところにしたい。そこで天津に宿泊して日帰りすることにした。高鉄で天津から山海関へはわずか1時間ちょっとで、かつ頻繁に便があるので楽チンだった。
posted by osono at 23:36 | 著作