ただ、おそらく我々の感覚からいえばかなり早く、十二歳頃だったのではないか。
チワン族の結婚習俗は、正月など年中行事の際に冠笄(男二十歳、女十五歳)に達した男女が山野などで対歌(恋歌のかけあい)をおこない意にかなう相手をさだめ、相思相愛となれば贈りものを交換して夫婦となることを本人同士で約束をする。つまり明代のチワン族は若い男女がみずから相手を選ぶ自由恋愛によって、女性の場合十五、十六歳頃に結婚したのだ。ただ、時代がくだり清末中期ころからは、漢族の影響をうけて、当事者ではなく親や親戚同士で結婚を決め、かつ婚期が早まり、七、八歳で婚約し十一、十二歳で結婚するようになっていった。
これらはチワン族の庶民の場合である。土官については、漢人やその文化に触れる機会が多く、また、領民に対して文明の明るさを誇示するためもあってか漢化が早くから進んだ。瓦氏夫人も三尺の童子のうちに婚約し、笄に達する前に結婚した可能性が高い。
『明史』には、岑猛の死後に起こった乱平定のために広西に赴任した王陽明の言として、「岑猛には四子があった。長男邦佐は妻の張氏の子、次男邦彦は妾の林氏の子、三男邦輔は外婢の子、四男邦相は妾の韋氏の子である」と記されている。
この一文から花蓮には子がなかったことがわかる。
王陽明は、正妻は張氏だったといっているのだが、漢族の婚姻習俗に則ればただひとつのはずの妻の座を張氏が占めていたのならば、他は妾か外婢≠セったということになる。しかし、花蓮の生家が土官であったことを考えると妻に劣る立場にあったとは考えにくく、ゆえに彼女は、子がなかったことから王陽明の言に現れなかったものの、張氏と同格だったのではないだろうか。
四人の子の生年については記録が残っていない。ただ、次男岑(しん)邦彦(ほうげん)の子の岑芝(しんし)の生年は邦彦の没年である嘉靖五年(一五二六年)より前であることは確かなので、邦彦は正徳年間の初期(正徳元年は一五〇六年)に生まれたと思われる。
花蓮の輿入れは正徳六年ころなので、次男邦彦は四、五歳の幼児で、長男の邦佐(ほうさ)は既に少年期にあったはずである。次男の年齢から考え三男も既に生まれており、四男邦相(ほうそう)も生まれていたか母韋氏の腹のなかにいたのではないか。
だとすれば、花蓮は岑猛の妻妾のなかで最も遅く輿入れしてきたのではないかと想像できる。
王陽明は「猛は林氏を嬖愛(へいあい)し張氏は愛を失った」とも述べている。多くの封建領主がそうであるように、岑猛の場合も最初の妻である張氏は政治的な理由で娶り、他方で林氏については好いて妾としたのではないだろうか。
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『瓦氏夫人〜倭寇に勝ったスーパーヒロイン』