2015年04月26日

上海極楽湯の奇跡

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上海東大OB会さんのアレンジで、一橋・東大・京大三学共同の勉強会があるというので参加してみた。お勉強するのは上海極楽湯の成功の秘訣。場所は先ごろオープンした上海極楽湯2号店で、以前から行ってみたかったので「これは是非!」と思った。

いやいや、すいごいすごいとは聞いていたけど、本当にすごいんだ。冬季の週末ともなると入場に2時間待ちとなるほどの大人気なのだとか。4月になって気温の上昇とともに客が減ったそうだが館内は満員だった。オープンしたてということもあるかもしれないけれど、風呂もトイレも床暖付きの床もピッカピカ。

日本本社から派遣され1号店の立ち上げも手がけた方から伺った話は驚きも少なくなかった。例えば、日本式サービスの提供を徹底しているとのこと。日本企業がサービス業や中国で売る製造業で中国に進出する場合、日本式に多少の中華風アレンジを加えることが成功の鍵だと思っていた。以前書いたビジネス書でもそんなことを書いたのに、極楽湯は日本式を徹底することで成功しているようだ。従業員のお辞儀の角度まで決めているんだって。それに、上海極楽湯の立地は一号店が浦東金橋で、先ごろオープンした二号店が祁连山南路、つまりどちらも上海のドいなか。上海においてサービス業で成功するためには立地が極めて大事であり、中国側パートナーなどのいいなりになって悪い立地で出店したりするとひどい目にあう、みたいなことも以前書いたのに、それも覆されてしまっている。

極楽湯はJASDAQに上場しているようなので、ならばさっそく株を買わなくっちゃ、と思い調べてみると2014年3月決算は赤字で2015年3月期3四半期も赤字。当3四半期決算をセグメント別に見ると日本が 約1.5億円の赤字で上海が約0.75億円の黒字。日本で大きな赤字を出し、しかしながら新規の上海事業はその赤字額の半分ほどにもなる黒字を出した、という状態のようだ。う〜む。いっそのこと日本の数十店舗を全部閉じて海外事業に特化しちゃえば、と言いたくなるような決算内容。買いなのかどうか、ちと悩む。
posted by osono at 23:04 | 中国経済

2015年04月05日

ちん痒消炎剤

大きな声では言えないのだけれども、

2週間くらい前からどうもかゆい。。。ゴールデン・ボールが。。。バットの付け根のあたりが。。。

一度かゆくなりはじめると猛烈にかゆい。朝、かゆくて目が覚めてしまうこともある。掻けば掻くほどかゆくなるので極力掻くのを耐えるのだけれども、自室で耐えている時、思わず「ぐお〜〜」と咆哮してしまうほどにかゆい。

全くもって品行方正、尼僧のような生活を続けているのに、なぜにかようなところがかゆくなったのか。

ネットで調べてみると、どうやら湿疹らしい。

子供の頃はひどい湿疹もちで、大人になってからも冬になると毎年肌がところどころ凸凹になる。今年の冬は雪山に3度いったせいか、例年になくひどい湿疹が出た。毎年毎年身体のあちこちに湿疹をつくるのだから、これまでこの場所だけが無事だったのが単なる偶然だったと言うべきなのかもしれない。

それにしてもかゆい。他の場所の湿疹に比べると桁外れにかゆいような気がする。そのうえ人前で掻くことはできないので相当につらい。

ネット検索を続けていくと、よく効く薬があるらしい。その名も「デリケアM’s」。つまり、「メンズのデリケートな場所をケアする薬」って意味だな。

翌日薬局に走った。

が、買えなかった。商品は店にあるにはあった。しかしそれはキャッシャーのすぐ後ろの棚に置かれており、店員に声を掛けて棚からとってもらわなくてはならない。店員は女性。それも、美人。それも、店の前の満開の桜並木に勝るとも劣らず華やかに輝く美女。とても「メンズのデリケートな場所をケアする薬をください」なんて言えない。

歯ブラシを一本買って帰宅した。

結局ネット通販にて購入し、二日後、待ちに待った商品が届いた。

自室に飛び込みズボンとパンツを潔くおろし、さっそく試した。

これはいい。かゆみが一瞬でほぼなくなった。

そのうえ、男性好みの爽快クール感!やみつきになりそうだ。

ちなみに、こういう薬品は「鎮痒消炎剤」というらしい。「ちんようしょうえんざい」と読む。

posted by osono at 22:34 | 日記

2015年04月03日

遣明船が八か月居座った嶴山



1547年5月4日。4隻の遣明船が五島の奈留島を出帆した。当初は順風に乗って順調な航海と思われたが、同月9日より雲行きが怪しくなり10日に暴風雨に巻き込まれた。そして4隻のうちの3号船が他の船とはぐれてしまう。南に流された3号船は温州沖で海賊の襲撃に遭い、死者数は89人、実に乗員の約半数が命を落とした。

満身創痍の3号船は北上し、先に無事寧波沖に到着していた1、2、4号船と合流。6月1日、4隻揃って寧波の外港(現代の鎮海)に入った。ここから寧波へは甬江を遡って1日の距離なのだが、使節は先へ進むことを許されなかった。明国政府は「十年一貢の法度に反している」として入貢を認めなかったのだ(日本による直近の入京は1540年でそれから7年しかたっていなかった)。

遣明使節一行は定海で30日間粘ったが、ついには退去を命じられる。はるばる日本からやってきて、海賊に遭遇して多くの命を失い、それなのに上陸すら許されない。まったくもって踏んだり蹴ったり。

しかし、帰れと言われておとなしく帰るわけにもいかない一行は、貢期に至るまでどこかで待たせてほしいと駄駄をこねた。明国政府はやむを得ず、舟山群島の小島、嶴山にとどまることを許した。

現在、嶴山は舟山島と橋でつながっており簡単に行くことができる。定海のバスターミナルのすぐそばにあるバス停から30分に一度程度の頻度でバスが出ている。でも当時はむろん橋などなかったし、一行は、島から出ることができるのは米、塩、薪、酒などを舟山に調達しにいく時のみに限られていた。上の地図のとおり、周囲十キロ程しかない小さな小さな島だ。むろん娯楽はなにもない。そのうえ男ばっかしである。この逗留は結局八ヶ月にも及ぶことになるのだが、さぞ辛かったことだろう。

一行が寧波の地を踏むのは翌年3月9日。その後半年以上待たされ、10月6日に寧波を離れ北京に向かい、翌4月18日に北京に着いた。

五島奈留島を出立した時から数えれば実にほぼ2年が過ぎて、ようやく崇文門をくぐったのだった。

遣明船の嶴山滞在について、
詳しくは→

posted by osono at 23:55 | 華東(蘇州、南京、杭州等)