中村少年には突然障害者になった友人がおり、作文はその友人を見て学んだことを記している。一部引用すると、
友達を見て、初め「かわいそう」だと思っていました。でも一生懸命にリハビリに取り組んでいる友達の姿を見ていると、僕は「かわいそう」と思うのは良くない事だと思うようになりました。なぜかというと、人に対して「かわいそう」と思うことは、その人を見下しているように思ったからです。
この作文は複数サイトに転載され、数万から十数万もの「いいね!」を得て拡散したようだ。
僕は「いいね!」をためらった。この作文は確かにいいと思う。誰かをみて「かわいそう」という感情を抱くとき、本人にそういう自覚がなくても、そこには往々にして相手を低くみる気持ちが隠れている。そのことに中学生でありながらも気づいた中村少年の感性はすばらしい。
でも僕は「いいね!」をクリックしなかった。この作文が何十万人へと伝播していくとき、果たして中村少年の趣旨は正しく伝わるのだろうか、「「かわいそう」と思うのは良くない事だと思うようになりました」という一文を「障害者を特別扱いするべきではない」という意味だととらえる人が少なからずいるのではなかろうか、と思ったのだ。
もちろん特別扱いされたくないという障害者もいるだろうけれども、そうでない人もおり、特別扱いされることを必要としている人も確かにいる。少なくとも僕の兄はそうだった。アスペルガーの特徴として、一見しただけでは障害者であることがわかりにくい、ということがあげられる。だから兄は学校や職場で健常者と同じように扱われたのだが、そのことが兄を大いに苦しめた。「こだわりが強い」とか「暗黙のルールがわからない」といったことなどから、周りの人と仕事の進め方がどうしても異なってしまう。周囲は兄のことを自分と同じだと思っているので「どうしてそんな仕事もできないのだ」と感じてしまう。そうした感情がいじめにつながった。彼が通った複数の学校や職場のいずれにおいてもひどいいじめがあった。兄は特別扱いされることを望んでいたと思う。少なくとも周囲が兄はちょっと違った人間なんだと考えてくれさえすれば、彼の人生は全く違うものとなっていたはずだ。
中村少年の作文は「自分と人は違っていて当たり前なのだし、その他人を認めることは最も大切なことだと思います。世の中のすべての人が自分と違う他人を受け入れることこそ、差別のない社会の実現につながっていくように思います(後略)」と結んでいる。全くもって至言、というべきか。
さて、昨今精神疾患をもつ、もしくは精神疾患をもつと思われる者による事件が複数あり、そのたびにインターネット上では「精神障害者だからといって特別扱いするな」との論が多数書き込まれた。一方でそれに対する反論も少数ながらもあるようだが、後者は精神障害者もしくは精神障害者の近親者により書き込まれている場合が多いようだ。よって論が分かれるのは精神疾患に対する理解の深さの違いによるのではないかとも思われるのだが、もちろん後者の意見が絶対に正しいとは言い切れない。精神障害者およびその近親者の場合、障害者寄りに過ぎ、社会全体の利益を考えた時にはバランスを失しているということがあるかもしれない。ただ少なくとも言えるのは、前者の意見が精神疾患に対する深い理解なしに述べられているのだとすれば、それはちょっと待ってほしい、ということだ。意見を言うのではあれば精神疾患についてよく理解したうえでにしてほしく、理解をしていないのであれば、せめて黙っていてほしいと思う。