2014年04月24日

商船三井船差し押さえについて。日本の外交上の失策?

商船三井船差し押さえの件。どうも事実関係がよくわからないのだけれども、ウェブで拾うことができる情報と若干の想像を加えてまとめてみると概ね以下の感じだろうか(あくまで「概ね」である。ウェブ上の情報は往々にして間違いが潜んでいるし、僕の想像も入っているから全てが事実どおりとはいえない)。

1) 商船三井の前身の一社である大同海運が1936年6月と10月に中威輪船公司から6000トン級の順豊号および5000トン級の新太平号を1年契約で借りた(定期傭船契約)。契約は1937年に更新された。

2) 1938年8月、2隻は1938年3月に制定されたばかりの国家総動員法に基づいて海軍に戦時徴用された。

3) 1938年12月21日に「新太平」が座礁し沈没。この沈没に対しては大同海運に対して保険金が支払われた。

4) 契約は1938年中に(もしくは1939年にかけて)満了。1939年、中威輪船公司側が傭船料不払いがあるので大同海運に問い合わせたところ「戦時徴用されてしまった」と通知があった。

5) 1944年12月25日に「順豊」が連合国に雷撃され沈没。

6)  戦後、中威輪船公司オーナーの陳順通氏が2隻の沈没を知る。

7) 1964年、陳順通氏の相続人が日本政府を相手として東京簡易裁判所に調停を申し立てたが1967年不調に終わる。

8) 1970年、同じく東京地方裁判所に損害賠償請求を提訴したが東京地裁は1974年に消滅時効の成立を理由として棄却。原告は東京高等裁判所に控訴するが1976年に取り下げて、東京地裁の判決が確定。

9) 1987年初に中国の民法における時効制度が通知され、1988年末が損害賠償の提訴の期限となったため陳順通氏の相続人が1988年末に大同海運の後継会社であるナビックスライン(株)(現在の商船三井)を被告とし上海海事法院に定期傭船契約上の債務不履行等による損害賠償請求を提起。ちなみにこのときの原告側弁護団は多国籍からなる総勢56人の中国民事訴訟史上最大のものだったらしい。

2007年12月7日上海海事法院で約29.2億円の損害賠償を命ずる一審判決が出された。被告側は同判決を不服として上海市高級人民法院(第二審)に控訴。2010年8月6日、上海市高級人民法院より第一審判決を支持する第二審判決が出された。被告側は最高人民法院に本件の再審申立てを行ったが2011年1月17日に同申立てを却下する旨の決定を受けた。

これを受け、商船三井は原告側に示談交渉を働きかけていたが、2014年4月、突然所有する所有する鉄鉱石運搬船「BAOSTEEL EMOTION」の差し押さえの執行を受けた。そのため同月23日、金利分などを加えて供託金40億円を支払った。翌24日、差し押さえは解除された。

さて、本事案を考えるにあたってひとつのキィーとなるのが、本事案は日中共同声明にいう「戦争賠償」の守備範囲となるのかどうかということ。日中共同声明の

中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する

という文章は曖昧さがあるけれども、サンフランシスコ講話条約第14条(b)の

連合国は、連合国のすべての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとつた行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する

という文言を参照にして広めに解釈すれば「中国とその国民は日本国とその国民に対して戦争賠償の請求をしない」という意味だということもでき、よって本事案が戦争賠償に当たるのならば賠償の必要はなし、という結論を導きだすこともできる。

では「戦争賠償」に当たるのかどうか。

・契約は対日本国ではなく、民間企業同士の商業契約
・契約の締結は日中戦争すら始まっていない1936年
・日本政府と商船三井(の前身の会社)との間では形式上とはいえ損害賠償がなされているはずで(戦時補償特別措置法によって戦時補償が全額なされていると思われる(同時にその額と同額の賦課がなされているので政府は1円も支払わないのだけれど))、であるならば徴用開始後も契約の流れは 中威輪船公司代表者 ←→ 大同海運 ←→ 日本政府 のままであり、中威輪船公司代表者の契約相手は大同海運であると思われること
・中国の報道によれば徴用される前の傭船料にも滞納があり、また「新太平洋」沈没については保険が支払われそれを大同海運が着服してしまったという。もしそれらが本当ならば、これらは戦争とは関係のない債務の不履行(「新太平洋」沈没は戦時徴用後のようだけれども、保険が支払われているのであれば戦争で沈んだわけではないことになる)であること、

などから考えると、これは戦争賠償の問題というよりも、商業契約上の紛争と考えたほうが妥当なように思える。

また、戦時徴用後もなにがしかの傭船料が支払われていたのではないかと思われ(これはまったくの想像。中国側報道には、逆に大同海運が海軍に対して傭船料を払っていたと書かれていた。ちょっと信じ難いけれども、何らかの理由で2隻が拿捕され没収され、それがそのまま貸し出された、なんてことはむちゃくちゃな時代だからあるのかもしれない)、それなのに中威輪船公司に傭船料が払われていなかったのであれば、ここでも大同海運は着服していたことになる。戦時徴用前の傭船料不払い、戦時徴用開始後の傭船料着服、保険金の着服はいずれもなかった可能性もあるので断言すべきではないけれども、諸々大同海運に不当なところはあったような感じがする。

40億円を支払わされた商船三井は気の毒ではあるけれども、他の戦時徴用船については自分でカネを出して買った船が戻ってこなかったのだから民間企業が広く戦争の負担をさせられたのに、2隻についてはカネを払って買っていないのだから大同海運に負担はなかったわけで、大同海運は得をした、ということもできる。そのツケの伝票が70年後にまわってきたと考えてもいいだろう。

そう考えてきて思うのは、菅官房長官の発言は勇み足だったのではないか、ということ。

菅官房長官の「日中共同声明に示された国交正常化の精神を根底から揺るがしかねない」発言は外交的失策というべきかもしれない。その発言の意図が、世間一般がそう捉えたように「戦争賠償の請求を放棄することを約束しているのに、それに反する」ということであれば、上記のとおりそれは的外れと思われるし、日本はなんでもかんでも「戦争賠償だから相手にしない」といって済まそうとする国だと国際的に思われる結果となってしまったかもしれない。むしろ官房長官は「あれは民間同士の事件だから」といって流しておいたほうが日本は合理的法治の国だと思われ、他の訴訟を有利に進めることができたように思う。かつ、あのような発言をしてしまったために中国国民に「戦争賠償であっても国対国の損害賠償請求でなければ(どちらか一方が国でなく国民であれば)中国国内裁判で勝訴すれば賠償を獲得し得る」と思わせる結果となり、他の訴訟に悪影響を及ぼす可能性もでてきたのではないか。

次から次へと訴訟が立ち上がるのが怖くて反射的に「戦争賠償の請求を放棄することを約束しているのに、それに反する」といってしまったのかもしれないが、1989年以降については中国においても時効が成立するので同様の訴訟が新規に起こされることはないはず。

菅官房長官発言が、もし単に「日中友好を損なうものだ」という意味だとしたら、子供が友達のオモチャを壊して相手の子供が怒ったときに、壊したほうの子供が「仲良くしなくっちゃいけないって先生がいっていたじゃないか」と反論したようなもの。






posted by osono at 20:21 | Comment(0) | 中国社会・外交など

マカオの大発展から東京カジノ解禁問題を考えると

今回一年ぶりにマカオに来て驚いたのは、まずは人の多さ。一年前よりも観光客がずいぶんと増えたような気がする。ベネチアンのカジノ・フロアの中央からショッピング・フロアへ上がる長いエスカレーターなどは朝のラッシュアワーの新宿駅のようだった。中国の景気が悪いってのは嘘なんじゃないか、今後景気がよくなってきたらいったいどうなってしまうのだろうか、ラスベガス・サンズの株を急いで買うべきなんじゃないか、などと考えてしまった。

image.jpgそれからカジノのミニマム・ベット(各ゲーム・テーブルごとに決められた最低賭け金)がインフレしていること。ミニマム・ベットはいまや500香港ドルの時代になってしまった。300香港ドルというテーブルもあるにはあったけれども非常に数が限られていた。500香港ドルといえば6500円程度。マカオにウィンができたころ(2006年)はミニマム・ベット50香港ドルというテーブルもあったし、そのあとしばらくは100香港ドルだったのに、それがここ数年で200香港ドルになり、300香港ドルになり、ついには500香港ドルになってしまった。8年間で10倍!それにもかかわらずカジノは大盛況。

日本でもカジノ解禁がいよいよ実現しそうな雰囲気である。

しかし東京にカジノができても、その売上げはおそらくマカオに遠く及ばないんじゃないだろうか。僕自身カジノはきらいなほうじゃないし、カジノ解禁には賛成なのだけれども、検討のための事業予想が適切になされているのだろうか、と少々心配ではある。

東京でのミニマム・ベットの最少額は1000円というところだろう。マカオでの現状500香港ドルと比べれば約6分の1。つまりミニマム・ベットが最少のテーブルからの売上げは6分の1程度となる。

世界中どこのカジノへ行っても中国人であふれている。やはり中国人は賭け事が大好きなんである。日本人は少なくとも中国人に比べればつつましいもんである。東京にカジノが作られても、日本人の入場には入場料が課されることになりそうだということもあり、マカオのように自国民で溢れるなどということにはならないだろう。

中国人観光客に期待せねばならないけれども、マカオのように中国人が挙ってやってくるなんてことは考えられない。東京は遠いし、飛行機代がかかるし、言葉も通じないし。2013年の日本への中国人観光客数は70万人。日中関係が改善して、今後それが大幅に増えて10倍になったとしても、マカオへの年間観光客数の数千万人は遥かに遠い。

マカオのカジノでは奥まった個室で一回の賭け金が数百万円なんてゲームが平気で行われている。それらVIPルームでの売上げが全カジノ収入の70%程度を占めるのだとか。そうした高額ゲームが行われる理由のひとつには人民元を外貨に転換するということもあるようだ。いわゆるジャンケット・サービス(ホテルやカジノとは別の仲介人が種々のVIPサービスを提供するプログラム)を利用すれば大量の香港ドルチップを人民元で手に入れることができるようで、その仕組みがマネーロンダリングや、単に外貨交換枠を超えて両替したい人たちに使われているのだという。日本のカジノにはむろんそんなニーズはない。







2014年04月22日

ティファニー。日本で買うか、マカオで買うか、アメリカで買うか?

男という稼業をやっていると一生のうちに何度かそこそこ高額な贈物をしなくてはならない時がやってくる。実は今年はそんな節目の年に当たっている。

なにを買おうかとずいぶん前から悩んでいたのだけれども、失敗したくないので、結局本人になにが欲しいか訊いてみた。

image.jpg指定されたのはティファニーのとあるもの。

ティファニーの日本サイトに価格が載っていた。A円である。

ちなみにアメリカではいくらなのだろうと思い、日本語サイトの.co.jp を.comに変えてみると、bドル。為替レートを102円とすればB円。B÷A=0.69 。なんと日本で買うよりアメリカで買ったほうが31%も安い。

この差を知るとさすがに日本で買いたくなくなる。たまたま7月にアメリカにいく予定があるのでその時に買ったほうがいいんじゃないか、と思った。

ただそれでは節目の年の節目の日を過ぎてしまう、という問題があった。

そこで、節目の日の一週間前に広東省にいく用があるのでマカオでの値段をみて、それで納得できなければアメリカで買うことにした。

ベネチアンで訊いた価格はcマカオパタカ。日本円でいえばC円。C÷A=0.79 。つまり日本で買うよりマカオで買った方が21%安い。

B÷C=0.88 つまりマカオでの価格よりアメリカでの価格のほうが12%安いけれども、税金分が考慮されていない。例えばカルフォルニアで購入する場合の税金分を勘案すると、マカオとの価格差はわずかに5%ほどとなる(カルフォルニアで買った方が5%ほど安い)。

結局マカオで買うことにした。

それにしてもこの価格差、どう説明がなされるのだろう。数十年前ならまだわかるけれども、これだけグローバリゼーションが進んだ現代、どういうことなのか。数十万円以上の買い物をするなら飛行機に乗ってハワイあたりに行って買ったほうが安く買えることになる。国際貿易論ではなく、行動経済学で説明しなくてはならないのだろうな。

ちなみに円が80円代だった時はいったいいくらだったのだろう。当時と今とで価格が変わっていないとすれば、当時日本での価格はアメリカでの2倍近かったことになる。円安進行に伴い価格が調整されているとすれば、日本での価格は1年半で25%ほども高くなったことになる。

う〜む。

追記:香港空港で値段を調べてみたら1%ほど香港で買ったほうが安かったみたいだ。ただおそらく1000ドル未満の端数の処理の関係で生じる差違ではないかな。悔しいけれどもやむを得ないか。







2014年04月19日

上海鉄路博物館

上海火車站の歴史は浅く開業は1987年の年末のこと。それまでの上海の中心駅は上海北站で、いまの上海火車站のやや東側にあった。地下鉄の駅でいえば上海火車站から3号線か4号線で一駅行った宝山站のあたり。

1931年7月23日早朝。この上海北站で宋子文(国民政府財政部長)と重光葵(駐華日本公使)が同時に暗殺されそうになるという事件が発生した。

ふたりは対立するふたつの国それぞれの要人であって立場は真逆だし、ふたりのそれぞれの暗殺者は互いに無関係なのだけれども、同じ日に、それも同じ列車から降りてきたふたりに対する暗殺未遂事件が起こるなんて、単なる偶然とはなかなか思い難い。

昨年、このことを題材に小説を書いていて、暗殺シーンの模写をするために当時の上海北站の様子をいろいろ調べてみた。その過程で上海北站があった場所にいまは「上海鉄路博物館」が建っていると知り、ひょっとしたら駅舎内部の様子などわかるかもしれない、上海北站のミニチュアくらいあるかもしれない、と思って機会があったらいってみようと思っていた。

で、いってみた。帰ってきてすぐにこれを書いている。

image.jpg上海北站はターミナル駅であり、複線の線路が駅に近づくとどんどん枝分かれしていって、駅舎の前でそれらの線路がどん詰まりになるようになっていた。それは現在もそのまま残っており、宝山路站の窓から見ることができる。これはおもしろかった。「重光がこう歩いて、それからしばらくして宋子文がこう歩いてきて、暗殺者はここに潜んでいて」と、いろいろと想像することができた。

image.jpgしかし宝山路站から5分ほど歩いて着いた上海鉄路博物館には特段みるべきものはなかった。上海北站の駅舎の中の一部を写した写真が一枚だけ。あとはなんの参考にもならなかった。展示されている写真の多くはネット上でも探せたものばかりだったし。この博物館、すごく小さい。4、5階だての立派な建物なのに博物館部分は1階だけ。じっくりみても30分もかからない。

上海鉄路博物館 
 天目東路200号
 9時00分〜11時30分, 14時00分〜16時30分 日曜休業

posted by osono at 19:09 | Comment(0) | 上海

話しベタはどうにもならない

講演の上手な人をみるとうらやましい。僕もああいうふうにしゃべれないものかといつも思う。

以前は職業柄、講演のお話をいただくことも少なくなかったのだけれども、なんどやっても満足のいくようにしゃべれない。そしてあるとき、「どうやら自分は人前で話すことがヘタらしい」と気がついた。そう思ってからは、講演会のみならず、パネルディスカッションも、テレビやラジオの出演も、宴会でのスピーチすらも、大勢の前で話すような機会は極力避けるようになった。

なんとなくモノ書きが性に合うと思うのは、公表前になんどでも書き直すことができるということも理由のひとつだと思う。僕が小説を書くときは、最初にサッと書いてから、ペンキ塗りをするように、なんどもなんども修正をしていく。最初に書いた文章は、最後にはほとんど残っていない。

講演をいったん断りだすと、やがて依頼もこなくなり、その後5年ほどは全く講演をしなくなった。

が、昨年から機会があればボチボチ人前でも話すようになった。ゲンキンな話しだけれども、自分の本を売りたいからだ。テーマはもちろん自分の本の内容限定である。

しかしながらヘタなのは相変わらず。講演後、いつも若干の不快感がある。

昨日の講演もそうだ。いや、講演というよりも少人数を前にする気さくなスピーチという感じで、スピーチ自体はウマイもヘタもあまりないのだけれども、ひととおり話し終わったあとにいろいろと質問に答えているうちに調子にのってしゃべりすぎてしまった。「上海エイレーネー」の主人公のモデルである鄭蘋如が最後にはどうなるか、とか、いわゆるネタバレをやってしまった。「龍馬がゆく」を読む人はみな最後に龍馬が暗殺されることを知っているだろうし、「三国志」なら蜀が早い段階で滅亡することを知ってみな読むのだろうから、史実なら歴史小説のオチを話してしまってもいいような気がしてしまったのだ。でも、鄭蘋如についてはよく知らない人も多く、僕が話したことによって本を買ってくださったかたの楽しみは確実に何%か減ってしまったことだろう。

昨夜の帰り途。僕は後悔した。昨夜から今朝にかけて、泥沼の中を歩くように気分が重い。

昨夜の会に参加くださった方々。ほんとうにごめんなさい。

posted by osono at 13:25 | Comment(0) | 日記

2014年04月03日

「大事」か「小事」か〜靖国とか竹島とか、ちょっと尖閣も

前回の「尖閣問題。いにしえの賢人はこう語った」の中で、紀元前300年に圓の国に寄った遊説家、孟無子が圓国の王、安晋に対して「見小利則大事不成」と語った、という話を書いた。これはすなわち、小さな利を見ていると大事なことを成し遂げられない、といった意味だが、これと同主旨の言葉を中国古典の中に見つけるのは簡単だ。

例えば論語ならば、小不忍則乱大謀(小さなことを我慢できないと、大きな仕事をし損じる)、

韓非子ならば、顧小利則大利之残也(小さな利を気にしていると、大きな利を失ってしまう)、

他にも淮南子の、遂獣者目不見太山(獲物を追うことに熱中していると、自分が巨大な泰山にいることを忘れてしまう)、

史記の、大行不顧細謹大礼不辞小譲(大きな行いをするためには細かいつつしみなど気にすることはない。大きな礼の前では小さな謙譲など問題にならない)、

などなど。ことわざで言えば「木を見て森を見ず」がそれに当たるが、いにしえの賢人たちがみなそう思うほどに、人が成功するための、もしくは失敗しないための真理なのだろう。また、賢人たちがそろってそれを言わねばならないと思うほどに、人は容易く小事にとらわれて大事を見失うということなのだろう。

ただ一方で、論語に記された数々の細々とした隣のジイサンの説教のような教訓は、「大事」か「小事」かのいずれかに分類するならばほとんど全てが小事に属するように思えるし、韓非子ならば、千丈之堤以螻蟻之穴潰(大きな堤防もオケラやアリの空ける穴が元になって壊れてしまう)と、「顧小利則大利之残也」とはほとんど逆の意味の言葉もあったりして、僕のような愚人は混乱してしまうのだが、賢人たちは「常に『大事』を考えよ。とはいえ『小事』を軽んじていいといっているわけではないぞ。勘違いするんじゃないぞ。そこの愚か者よ」と、おそらく言いたいのだ。
***

今からほんの80年ほど前。この賢人たちの教えに背いて大事を忘れ、小事に拘ったばかりに国を破滅に導いてしまった人たちがいた。

北京郊外の盧溝橋での小競り合いを契機に始まった日中戦争。その開戦から約半年後の1938年1月15日に、のちの日本の命運を決定づけることとなる「政府大本営連絡会議」が行われた。議題はトラウトマン和平工作を打ち切るかどうか。トラウトマン和平工作は歴史の教科書にも出てくるようだが復習すると、1937年11月に日本側より中国側に対してトラウトマン駐華ドイツ大使を通じて呈示した和平条件について、蒋介石を中心とする中国国民党政権は12月初旬に受諾を概ね決めるのだが、それを日本側に伝える前に南京攻城戦が始まってしまう。南京陥落を受けて日本側は和平条件をつり上げた。そこには、華北への自治政権設置、揚子江流域を含む広い範囲への非武装地帯の拡充、戦費賠償など、中国側が容易に受け入れることができない過酷な条件が加えられていた。中国側からの回答は当然に遅延し、そのため、日本政府は交渉打ち切りの是非を決める会議を開いた。

(このあたりのことは拙著「上海エイレーネー」に詳しいのであわせて読んでいただけると嬉しい)

会議の出席者の中で、中国側の回答を待つべし、と主張したのは多田駿参謀次長のみであった。多田参謀次長は、日本の軍隊はソ連および共産主義の南下に備えなければならず、中国との戦いは本来対ソ連・対共産主義のために温存すべき国力の浪費以外のなにものでもない、と考えていた。ために、中国との戦争は一刻も早く終わらせなくてはならないと強く思っていた。

同じ陸軍の中でも杉山元陸相は交渉打ち切りを主張し、蒋介石が屈服するまで作戦を進めるべきとした。

廣田弘毅外相も交渉打ち切りを主張する。廣田外相は、永い外交生活の経験に照らせば中国側に誠意がないことは明らかだとして、中国側の回答を待つべきだとする多田参謀次長に対して「外務大臣を信用しないのか」と詰め寄った。つまり廣田外相は、中国側は外交儀礼にもとるから交渉を打ち切るべき、との考えを採った。

米内光政海相は「参謀本部が外務大臣を信用しないのならば、それは政府不信任と同じことだ」と述べた。これはすなわち、内閣総辞職となるがそれでもいいのか、と多田参謀次長を脅したのだ。米内海相は、非常時に内閣が崩壊すれば一時的な混乱が生じるので、それを避ける政治的配慮をすべき、と考えたのである。

近衛文麿首相は議論の行く末を見守っていたが、優柔不断の看板を掲げる彼は最後には多数派、すなわち交渉打ち切り派についてしまう。この時、世論は南京陥落で沸き立ち対中国強硬論一色であったため、軟弱な姿勢を示すと間もなく開催される帝国議会を乗り切れず、へたをすれば国民が暴発しかねないという考えも近衛首相の頭にあったようだ。

この各人の主張を「大事」と「小事」に分類するとどうなるか。為政者の大事を「国民の幸福のために行うこと」と定義するとすれば、ソ連と共産主義の南下に備えるために対中国の戦争は止めなければならない、という主張は大事であろう。「ソ連と共産主義の南下に備える」というのが戦略的に正しいかどうかは別として、そこでは直接的に国民の利益が考えられている。

杉山陸相は多田参謀次長と正反対の主張をしたが、交渉打ち切り、対中戦争の継続が国民にとっての直接的利益であると考えたのだろうから、大事を唱えたと言ってもいい(ただ同時におそらく、自分の意見が採用されて始まった戦争を中途半端な形でやめられないとか、陸軍省の権益拡大のためとか、そういう官僚的な発想もあったに違いないけれども)。

一方で、「外交儀礼上無礼だから」とか、「内閣総辞職を避けるため」とか、「帝国議会を乗り切るため」とかいうのはいずれも小事といっていい。

多田参謀次長は必死に自説を唱えたが多勢に無勢であった。陸軍内の意見が割れているのだから首相や外相が多田参謀次長側につけばおそらく違う結果になったのに、首相、外相は中国の返事を待つべきではないと唱え、結局会議は交渉打ち切りに決し、翌日、近衛首相はあの悪名高い「国民政府ヲ対手トセズ」声明、すなわち蒋介石との和平交渉を今後行わないとする宣言を行ってしまう。

日本はこの時に破滅への道を歩み始めた。交渉を継続していれば最終的には中国側は日本側条件を受け入れていた可能性が高く、日中戦争はすぐに終結したに違いない。

大事が小事に負けてしまったのだ。その結果は国の破滅だった。小事にとらわれた人たちの罪はとてつもなく大きい。
***

為政者にとっての大事が国民の幸福であるとして、幸福にはいろいろな要素があるけれども、中でも為政者に期待されるのは国民の身体と財産に対する危険を可能な限り小さくして、健康と富の増強をはかることだろう。それ以外のことは全て小事に分類されるといっていい。小事も疎かにしてはいけないけれども、大事と矛盾する小事は捨て去らなければいけない。

現代のこの国や彼の国の為政者にあてはめてみるとどうだろう。当の本人に訊けば「全てが大事なことなのだ」と胸を張っていうだろう。でも、その「大事」は「大切」という意味であって、上で述べたような大事とは意味が違っている。確かにそれらはことごとく大切なことだろうけれども、大事と小事の対比においては、多くのことが大事ではなく小事であるようにみえる。

例えば靖国問題。訪問するほうにとっても、それを批判するほうにとっても、ものすごく大切なことなのだろう。「だろう」というだけでも叱られそうなくらいに双方ともに大切なことだと考えている。でも、少なくとも「国民の身体と財産に対する危険を可能な限り小さくして、健康と富の増強をはかる」という観点からは、訪問するほうにとっても、それを批判するほうにとっても大事とはいえない。

例えば竹島問題。何週間か前の日経の「風見鶏」に書いてあったのだが、「竹島の日」記念式典で自民党の竹下亘氏が行った「平和的な解決以外に私たちは道を持っていない」等の発言について、日経紙上で紹介したいと考えた同紙編集委員が、兄の竹下登元首相が右翼の攻撃に悩まされたこともあるので心配して、紹介していいかどうか確認を行ったところ、竹下亘氏は「住めるわけではないでしょ」と答えたのだそうだ。つまりは竹島の領有自体は(いずれの国にとっても)小事だということだ。周辺海域で操業する漁民の利益がより大事であり、さらなる大事はこの問題で両国が衝突し結果として両国民の健康や富が損なわれることのないようにすること、であろう。

例えば尖閣問題。こちらは周辺海域に埋蔵するといわれる資源の問題が絡むので多少ややこしくなるが、領土問題は存在しないとしているほうにとっても、核心的利益に属する問題だとしているほうにとっても、もしメンツの問題なのだとすればそれは小事とすらいえないほどに小さいことだし、外交儀礼上の問題や国民感情についても、トラウトマン和平工作打ち切りの事例を思い浮かべれば明らかなように、大事をなすべき為政者にとっては小事である。

この国も彼の国も、為政者には大事、すなわち「国民の身体と財産に対する危険を可能な限り小さくして、健康と富の増強をはかること」のみを強く意識し小事にはとらわれないことを心から願うのだけれども、政治家にとっては票、もしくは国民からの人気も大事であることを考えると、近衛首相のような過ち、すなわち国民の声を聞くがために判断を誤るということは容易に起こりうると思っておかなくてはいけない。

だとすると、国際関係における諸問題を解決する鍵は、我々国民ひとりひとりの手に握られているというべきなのかもしれない。我々国民ひとりひとりが、メンツとか相手が無礼だとか、過去の恨みとか、そういうことは(たとえそれがどんなに大切なことであっても)小事であるとしっかりと認識する。最近、特に尖閣諸島の国有化以降、小事にとらわれている人がめっきり増えたようだが、この国の歴史における失敗を思い出し、彼の国のいにしえの賢人の声を聞くことにより、大事を目指し小事にとらわれないようにする。それがいま我々がなすべきことではあるまいか。





posted by osono at 22:34 | Comment(0) | 中国社会・外交など