2014年02月26日

真央ちゃんの会見でのすてきな笑顔を見て思うこと

世間一般オリンピックのネタにはもはや食傷気味だろうし、既に鮮度を失っている女子フィギュア・スケートの話題を蒸し返すことには抵抗もあるのだけれども、四年に一度(もしくは夏冬あわせれば二年に一度)思うことでもあるので、ちょっと考えたことについて記しておこうと思う。

いまさっきワイドショーで真央ちゃんの日本外国特派員協会での記者会見の様子を見た。まぶしいほどに晴れやかな笑顔で質問に答える彼女の姿を見て、なんだか胸のあたりが暖かくなった。

新聞かブログかなにかで、みんなが真央ちゃんの親の気分になっている、と書いてあった。確かにそうだ。苦しい時間を過ごしてきたあとの彼女の笑顔を見てホッとして、骨髄のあたりから暖かいものが湧き上がってくるこの感覚は、まさに親ならではだろう。

ただの親ではないな。愛情過多な親かもしれない。バカ親と呼ばれる範疇かもしれない。

テレビを見ていると、真央ちゃんのことを悪く思っている人が誰もいないようにみえる。アナウンサーも解説者もコメンテーターも街の人もみんな。引退云々について、みなもっと続けてほしいと思っているのだろうけれども、その発言がわずかにでも真央ちゃんのプレッシャーになることを恐れてなのか、そういおうとはしない。結果は残念だったけれども、とにもかくにも彼女が笑えていることを嬉しく思っている。ともかくしばらくはゆっくりさせてあげたい、肉体的にも精神的にも疲れた身体を休めさせてあげたい、と思っている。みんな愛情いっぱいの親なのだ。二十三歳なのだから恋もさせてあげたいとも思う。ということは、父親ではなく母親の気分なのか。

元首相にしても親のような気分だったのだろう。件の発言全文を読むと、愛情たっぷりなのに、世間に対しては自分の子について甘やかしたことをいえない親のようでもあった。

ところで、真央ちゃんが日本人だから親のような気分になっているのだろうか。おそらくそうではない。もちろん日本人選手だからこれまで日本で報道される機会が多く、ずっと注目してきたこともあって親の気分になってしまっているのだけれども、他の多くの選手、特に今大会で初めて名前を聞いたような選手に対しては全く同じような感情が湧かないのは、日本人選手であることが親の気分になる理由ではないからなのだと思う。すくなくとも十分条件ではない。葛西紀明にしても上村愛子にしても、その人の背景にあるストーリーをある程度知っているからこそ注目し、応援し、選手とともに一喜一憂する気分になったのであって、日本人選手だからというだけの理由ではないと思う。

中国でも韓国でも真央ちゃんには好意的な報道がなされているようだし、各国のフィギュア・スケートの選手たちが多数真央ちゃんに励ましの言葉を送ったとも聞いた。国を越えて親のような気分になっている人が多数いるようだ。

オリンピックの閉会式は各国選手が入り交じって入場してくるが、あれっていいなと思う。一方で、全般的にオリンピックでは国という単位が前面に出過ぎることに、いつもなんとなく不快感を抱いている。なんで国ごとのメダルの数を競う必要があるのだろうと思うし、(これを書くと批判されそうだけれども)ヘルメットや頬に日の丸を描いている選手をみると、なんだかウンザリする。とはいえ僕も日本人選手の競技ばかりをみて、日本人選手ばかりを応援するので、なんだか矛盾があるような、単に国際人、もしくは平和主義者を気取っているだけのような気もして、その不快感を扱いあぐねていた。

でも真央ちゃんの記者会見における笑顔を見て、少し整理がついたような気がした。期待したメダルが日本にはもたらされなかったけれども、もはやそんなことはどうでもよくなって、彼女が微笑んでいることだけを嬉しく思った。

どうだろう。中国や韓国で真央ちゃんに好意的な報道がなされていると聞けばなんとなく嬉しいし、ロシアの観客のロシア選手が演技するときの異常な盛り上がりを見たりとか、真央ちゃんが転倒した時に笑いが起こったという報道に触れれば嫌な感じをもったのではないだろうか。それはやっぱり国を単位とした考え方を愚かしく感じているからではないだろうか。

日本外国特派員協会でのインタビューで、「キムヨナとはライバル関係にあるが、日韓関係を改善するにはどうすればいいか」という質問があったそうだ。ああ、なんて愚かな質問だろう。対して真央ちゃんは苦笑して、何かをいう立場にはないとしたうえで、キムヨナとは友達だ、と答えた。正答!

国の境がきな臭くなっている昨今だからこそ、こんなことをつらつら思ったりしている。






posted by osono at 18:12 | Comment(0) | おかしいと思うこと

2014年02月15日

大雪の日にフィギュアスケートを見ながらつらつら思う

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(以下、テレビでオリンピックを見ながら思いつくままに書いているので、かなりの乱文、悪しからず)

東京ってこんなだっけ、と思わせるような雪が降り続いている。

写真はフィギュアスケート鑑賞の合間に、すなわちたったいま撮ってきたもの。不思議と空が明るいけれども深夜2時である。

78年ぶりの大雪だそうで、78年前といえば226事件の時だと巷では話題になっているとか。

226事件のその日、果たして本当にこれほどの雪が降ったのだろうかと思い画像検索をしてみた。

確かに雪が積もっている。でもどうかなぁ。道路や家屋の屋根の上を見ると昨日の夕刻頃の状態に近いようにも思える。

大雪→226事件と連想するのなら、続けて、→桜田門外の変→赤穂浪士吉良邸討ち入り と連想していかなくてはならない(かな)。

桜田門外の変の日も雪が積もっていたらしいけれども気象庁の記録があるわけではないので今日ほどの大雪だったかどうかを知ることはできない。その日はいまの暦で3月24日らしいので、大雪と呼べるほどのものだったかどうか、相当に疑わしい。

吉良邸討ち入りの日については、雪が降ったのは前日で討ち入り当日は晴れていたらしい。実は積もった雪は大したことはなく、芝居や映画の演出で討ち入りのその時に大雪が降っていたような印象ができあがってしまっただけなのかもしれない。

それにしても、なぜにかくも大事件の発生する時に限って雪なのか。スピリチュアル系の人なら神の怒りのせいとかいうかもしれないけれども、歴史作家系の目で見れば、音が雪に吸収されるこの日を襲撃者は敢えて選んだ、ということになるかな。まあ、全くの偶然というのが正解だろうけれども。

ちなみに昨日、16世紀初頭についての物語を書いていて、当時の農村は、戦争に労働力をとられ、合戦場となれば田畑が荒らされて、のみならず略奪、婦女子に対する暴行が横行し、九州では奴隷狩りも行われ、そのうえ飢饉や疫病が毎年のように発生し、と、日本の歴史のあとにも先にもこれほど悲惨な時代はなかったのではないかと思ったりしたのだけれども、当時の飢饉は長雨が大きな要因であり、その長雨は、地球規模での弱寒冷期、いわゆる小氷河期のためと考えられる、ということを勉強した。

16世紀ならば東京においてもこれほどの大雪が頻繁にみられたのかもしれない。16世紀の物語を書くには絶好の気候ではないか、などと考えつつ、まもなくはじまる日本人スケーターたちによる演技を見るためにテレビに集中することにする。






posted by osono at 02:41 | Comment(0) | へえ〜 そうなんだぁ

2014年02月06日

上海エイレーネー紹介記事が掲載された

今朝、「上海エイレーネー」の紹介があちこちのサイトに一斉に掲載された。

http://news.infoseek.co.jp/article/20140207jcast20142196057
http://netallica.yahoo.co.jp/news/20140207-00000000-jct_bw
http://www.jctell.net/news/11373.html
http://newschina.jchere.com/newsdetail-id-3484517.htm

等々。

うれしい。

売れるといいな。





posted by osono at 16:45 | Comment(0) | 著作