2014年01月23日

メトロポール・ホテルとハミルトン・ハウス

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上海福州路と江西中路の交差点で写真を撮ってきた。左側はメトロポール・ホテル(現新城飯店)、右側はハミルトン・ハウス(現復州大楼)で両者は復州路をはさんでたっている。

写真で見てわかるように、両方の建物は非常に似ている。それもそのはず、全く同時期に同じ設計者によって建てられたのだそうだ。

メトロポール・ホテルは、今は3つ星ホテルだが、租界の頃は高級ホテルだった。

ハミルトン・ハウスは、往時は企業の事務所と高級住宅が混在する建物で、著名ジャーナリスト松本重治はここに住んでいた(松本は以前は虹口に住んでいたようだが、こちらに越してきた)。

松本重治が日本行きを渋る元外交部亜州司長高宗武を説得するのがこのハミルトン・ハウス内の松本の自宅である。「上海エイレーネー」の第三章では、主人公・靄若の指示で靄若の同僚の工作員が向かいのメトロポール・ホテルで監視しているときに高宗武が現れる。そして……(ネタバレとなるため、以下省略)

IMG_0164.jpgところで、この福州路と江西中路の交差点は四方のコーナーが削られており、ローターリーのような形状になっているのが珍しい。僕の記憶ではこの交差点の中央あたりに、おかしな形(どんな形だったか思い出せない)をした租界の頃のマンホールがあったように思うのだが、見つけられなかった。写真のような四角いマンホールがあったが、マンホールに刻まれた文字を見ると(写真ではブレていてよく見えない。ごめんなさい)、古いものではないらしい。でも四角いマンホールというのも珍しいと思う。だって四角いと、少し角度をずらせば落っこちてしまうはずだから。

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posted by osono at 14:49 | Comment(0) | 上海

2014年01月21日

MacBook Airを買っちゃった

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うふふふ。買っちゃった。うれしい  

先日、友人に眉をしかめて「PCが遅くて腹が立つ」と言ったら、彼は「ならばマックにすればいいのに」と言って、傍らのバッグからMacBook Airを取り出した。

彼にそんなつもりは全くなかっただろうけれども、僕には彼の所作がなんとも誇らしげに見えた。

僕だけかもしれないし、その理由をうまく説明することはできないが、Macを使っている人を見ると、ちょっとだけカッコいいように思ってしまう。ウィンドウズPCを使っていることに、ちょっとだけコンプレックスを感じてしまう。

ただMacに乗り換えるとなると、オフィスやillustrator、Photoshop、Acrobatなど、僕には必須のソフトウェアをすべて買い直さなくてはならない(と思う)。加えて友人いわく、MacBook Airは15万円くらいとのことで、ここ何年か5〜10万円の範囲でPCを買っている僕には大きな負担感があった。

しかしカカクコムで調べてみると、MacBook Air 13インチディスプレイで、128GBで我慢すれば、9万円弱で売っていることを知った。

価格を調べるためにPCをスリーブから起こし、ブラウザを立ち上げ、入力が可能になるのを待ち、chromeの検索窓にキィーワードを入れて。。。。。。とやっているだけでえらく時間がかかった。カカクコムで結果が表示されるまでに(僕の感覚では)10分近くかかったように思う。

Macにすればこの状況が改善するのかどうか、よく調べもせずに、僕はMac購入を決めた。
***

カカクコム上の最安値の店で通販で買おうと思っていたのだけれども、実物を一目見てから買いたいと思い、家のそばのヤマダ電機に行ってみた。

ヤマダ電機店頭での価格表示は「103800円」だった。

(ふむふむ。やっぱりヤマダは高いなぁ)

と思ったのだが、表示をよく見ると「15%ポイント還元」とある。15%引きだと考えれば表示値で買っても88230円相当となり、カカクコムの最安値とほぼ変わらなくなる。

店のニイちゃんを呼んで「いくらになるの?」と尋ねると「1000円しか引けません」とのこと。

1000円でも引いてもらえればカカクコムの最安値より条件がよくなる。

当初そのつもりはなかったけれども、ヤマダ電機で買うことにした。

アマゾンなどネット通販が普及し、「もう家電をヤマダ電機で買う人はいなくなっちゃうんじゃないの」と思い、1年くらい前に保有していたヤマダ電機株は売っぱらってしまったけれども、意外にも価格面でがんばっていることを知り、少々驚いた(まあ、それだけ経営環境は厳しくなっているということで、株売却自体は間違っていなかったかもしれないけど)。
***

いまこれを、買いたてほやほやのMacで書いている。

ここまでのところ極めて快適に動いている。全くストレスがない。

ただ、家電について浮かれたことを書くと、あとで「なんであんなこと書いたんだろう」と後悔することが時々ある。

例えば「iPad miniが来た」。そしてあとで反省したのが「iPad miniについての追記

今回も追記を書くことにならなければいいのだけれど。

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posted by osono at 15:32 | Comment(0) | 日記

2014年01月19日

上海クラブ(現ウォルドーフ・アストリア上海オン・ザ・バンド)

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夜中の外灘探索の最後は上海クラブ(現ウォルドーフ・アストリア上海オン・ザ・バンド(上海外灘華爾道夫酒店))。

clubnaka.jpgこの建物は、僕が上海に赴任したころは「東風飯店」という3つ星か4つ星のホテルだった。その後長期にわたって閉鎖され、中を見ることができず残念だったのだけれども、2010年に5つ星の「ウォルドーフ・アストリア上海オン・ザ・バンド」の一部として再オープンした。

上海クラブについては「上海エイレーネー」の中で(61ページ)次のように説明した。
 上海クラブは在上海イギリス人の社交の組織である。会員のほとんどはイギリス人で、入会審査が厳しく、日本人のメンバーはわずかに同盟通信社中南支総局局長の松本重治と在華紡績同業会理事長の船津辰一郎の二人しかいない。地下室を含めて六層のビルの中にはレストランやバー、チェスルーム、シガールーム、宿泊施設などがある。内装は日本人建築家の下田菊太郎によるが、調度品の多くはイギリスから輸入した最高級品であり、エレベーターもイギリスから直輸入されたものが使われている。

clubelebe.jpgそのエレベータはロビー横に今もあり(使用はされていない)、当時を偲ぶことができる。

バーについては62ページで次のように書いた。
 四面鏡板のバーには客がまだまばらで、密談には最適な空間だった。
 カウンターに並んで座るとすぐにバーテンダーがカウンターを横滑りしてきて二人の前に立った。そして二人に対してラストネームとともに形式的な挨拶をしたあと、無表情のままでオーダーをとり離れていった。
(中略)
 エドマンドはカウンター越しのバーテンダーの立ち位置をちらりと確認した。松本の声が大きく、会話を聞かれないか気になったのだ。このバーの三十メートルもあるカウンターは東洋一の長さと言われており、ひとりのバーテンダーが担当する範囲も、それは東洋一ということはなかろうが、ずいぶんと広い。幸いバーテンダーは二人から五メートル以上離れたところでシェイクを振っており、二人の会話は聞こえていないはずだ。


clubbar.jpgウォルドーフ・アストリアを外灘側から入ってすぐ左側に、その名も「ロング・バー」というバーがある。ここでは、かつて東洋一の長さを誇ったカウンターやその他の内装が当時の写真などをもとに再現されている。

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posted by osono at 22:58 | Comment(0) | 上海

キャセイ・ホテル(現和平飯店)

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ライトアップ終了後の外灘探索の続き。

写真はキャセイ・ホテル・現和平飯店のロビーの様子。

和平飯店は改修のためしばらく閉鎖されていたが、2010年に4つ星から5つ星に生まれ変わって再オープンした。ただし、ロビー奥のバーの内装はほとんど手を加えられていないようで、グラス片手に老人プレーヤーたちのオールド・ジャズに耳を傾ければ、魔都上海にタイム・スリップすることができる。

キャセイ・ホテルは租界の頃の上海を代表する高級ホテルで、『上海エイレーネー』でもしばしば舞台となる。原稿内の「キャセイ・ホテル」による検索結果は14回であった。

259ページは、主人公靄若と前首相の御曹司隆明とが初めてのデートをする重要な場面。
 隆明はタクシーを降り、天に突き刺さるかのように聳えるピラミッド型の屋根を見上げた。
 キャセイ・ホテルは、銀製の蛇口、大理石の浴室、寝室ほどもある広いウォーキング・クローゼットなど、高級設備を誇る上海随一の名門ホテルだ。最上階には所有者であるエリス・ヴィクター・サッスーンが居住するペントハウスがある。
 ロビーは高級服を身にまとった旅行者やビジネスマンでごったがえしていた。巨大なトランクが積み上げられた山を見ると、ここが世界じゅうの人々の最終目的地、上海の玄関口であることを実感する。
 回転ドアを回して靄若がロビーに入ってきた。
 コートの裾をわずかに揺らすあでやかな姿を見て、隆明は、この回転ドアも、大理石の床も、豪華な装飾が施されたシャンデリアも、みな靄若が今登場するためだけに設えられた舞台のセットなのではないかと思った。


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posted by osono at 01:33 | Comment(0) | 上海

2014年01月18日

上海エイレーネー 本日刊行

irenen.jpg本日は大安。

上海エイレーネー、本日が発刊日です。

「美人スパイ、鄭蘋如をモデルとして、太平洋戦争前夜の上海の特務工作戦と日中和平工作秘史を描く歴史ドキュメント小説」(本書帯より)。ISBNは978-4434187698。Amazonはhttp://www.amazon.co.jp/dp/4434187694/。読んでやってください。
posted by osono at 10:02 | Comment(0) | 著作

英国総領事館(現ペニンシュラ・ホテル)

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次に英国総領事館。

現在の外灘33号にある。

広大な敷地を有し、現在はその敷地内にペニンシュラが建っている(ペニンシュラの敷地内に旧英国総領事館が建っているというべきかな)。

この建物だけは、まもなく23時過ぎだというのに煌々と輝いていてなんだか趣がなかった。この写真では広い庭がわからないし、前方の木がじゃまで、まるで木を撮影することが目的だったかのようなようにみえるし。

waitan13.jpgちなみに右は、ずいぶん昔に撮った写真。

英国総領事館は南京条約(1842年)による上海開港ののちすぐにこの地に置かれたが、そのときの建物は焼失し、現在みられる建物は2代目のもの。1870年代の竣工で、上海外灘で最も古く、唯一の19世紀の建物なのだそうだ。

上海エイレーネーの中では、英国大蔵省から派遣された外交官、エドマンド・レオ・ホール=パッチが、主人公、靄若をサポートし続ける人間として描かれている。靄若は密かにホール=パッチに好意を寄せ、ホール=パッチのほうも、どうやらおそらく靄若に好意をもっているようだ。

そのためホール=パッチの職場、英国総領事館も作中、何度も出てくる。「ガーデン・ブリッジ」と同様に原稿内を検索してみると、「イギリス総領事館」の単語の登場回数は12回だった。

例えば物語のほぼ冒頭の43ページ。
靄若を助けた白人男性のオフィスは歩いて数分のところにあった。

門衛が二人、銃剣を手に直立するゲートの向こうは深い緑に覆われており、混乱する外灘とは異次元のようである。回廊の両側に並ぶ樹木の向こうには広い芝生が広がっており、その先には、緩やかに傾斜する赤い屋根の、ベランダを巡らした二階建て洋館が見える。外灘に並ぶ他の建物は高層で、道路に面して建てられているが、ここは低層で道路から奥まって緑の中に建てられている。今の上海の混沌は自分には全くあずかり知らぬことだと主張しているかのようでもあった。

次第に気持ちが落ち着いてきた。ほんの十数分前に爆弾の投下を目のあたりにしたのが嘘のようだ。

広い庭を抜ける間に男性は、ここはイギリス総領事館であり、自分の名は「エドマンド・ホール=パッチ」だと言った。


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posted by osono at 09:58 | Comment(0) | 上海

2014年01月17日

ガーデン・ブリッジ(現外白渡橋)

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1930年代の雰囲気をより感じることができるんじゃないかと思って、外灘の建築群のライトアップ終了後の深夜の様子を撮影してみた。

写真はガーデン・ブリッジ(現外白渡橋)。

ガーデン・ブリッジは1907年の竣工で、2008年に一部修復されたが、100年以上前の姿がほぼそのまま残っている。

上海エイレーネー」の主人公・靄若は作中で何度もこの橋をわたる。

原稿を検索してみると、作中で「ガーデン・ブリッジ」という単語が16回も登場する。

例えば132ページ。
緊張していて気づかなかったが、今夜はかなり寒い。蘇州河の上を吹く風が冷たく、両手で耳を覆いながらガーデン・ブリッジを渡った。橋の中央で通行する者ひとりひとりを睨みつける日本兵の横を通り、対岸の橋のたもとで無表情に立つイギリス歩哨の脇を抜けた。ガーデン・ブリッジを渡ってすぐ左手にはパブリック・ガーデンがある。夏ならば夕涼みの人で賑わうこの公園も、この寒空の下で人影は見られなかった。

1937年11月の上海陥落からまもなくして、ガーデン・ブリッジの中央に日本人の歩哨が立つようになった。橋を渡る人は、日本人も中国人も、みな頭を軽く下げて日本兵の横を通り抜けたそうだ。

ちなみに、蘇州河から吹く突風が耳を覆いたくなるほど冷たい、というのは創作。実をいえば、この橋を歩いてわたる時に他の場所に比べて風が特に強いと思ったことはないので(この写真を撮ったときは無風だった)、実際にはそれほど寒くなることはないのかもしれない。

それから例えば191〜192ページ。
靄若は松本の考えを推察した。ガーデン・ブリッジの歩哨は左側通行の橋の左側に立っている。松本はそこを日本語で同盟通信の車だと言って通過する気なのだろう。右側に座っている高宗武は、帽子で歩哨からは顔が見えない。胸には記者バッジが付いているので、歩哨も彼を記者だと思うだろう。

著名ジャーナリスト松本重治はその著作「上海時代」下巻の中で、国民政府の元外交部亜州司長、つまり日本風にいえば元外務省アジア局長を車に乗せ、ガーデン・ブリッジを渡った時のことを記している。この部分はその記述を参考にしている。高宗武は徹底抗戦の姿勢を強める蒋介石の意向に反して日本との和平交渉のために日本に向かうのだが、上海深夜発のEmpress of Japan号に乗る直前に決心がにぶり、松本重治の家で酒を飲みながら松本に説得される。そしてようやく日本行の決心を固めた高宗武は松本の車で虹口の港に向かうのだが、国民政府高官である彼は、途中のガーデン・ブリッジで歩哨に誰何され拘留されるおそれがあり、歩哨の目をたばかる必要があったのだ。

ちなみに、松本重治の車が高宗武を載せてガーデン・ブリッジを渡ったのは1938年7月2日午後11時半頃。ちょうど僕がこの写真を撮ったのと同じ時刻だ。この写真を見つめていると、同盟通信社の旗を立てた黒塗りの車が橋の真ん中に停車しており、その車内を日本兵が覗き込んでいる姿が見えてくるような気がしないか。

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posted by osono at 23:56 | Comment(0) | 上海

2014年01月15日

成人の日、元宵節、藪入り

一昨日のこと。

「あ、あ、あんぱんまぁん、やさしいみきさ、いっけ、みんなう〜め、あ〜もるた〜め〜」
と、奔放な歌詞と音程の歌声で目が覚めた。ベッドサイドの時計に目をやると「8:10」と表示されている。

(あれ?なんでまだいるんだ?)

普段なら息子は既に保育園に行っていて、僕は一人、コーヒーを飲みながら朝の連ドラを見ているはずの時間だ。

視線を天井に戻し脳の覚醒を待って、しばらくして今日が祭日であることに気が付いた。

再び時計のほうへ首をひねり時間のとなりに小さく表示されている日付を見ると「1月13日」とある。ピンとこない日付だけれども、成人の日か。

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中国では元旦まであと16日。街には既に正月の化粧が施されている
それにしてもなんでこんなときに祭日があるのだろう、と僕は思った。つい先日まで長い休みがあり、ようやく正月気分が抜けてきてエンジンがかかってくるところでまた休みである。出鼻をくじかれるような感覚があるのではないか。日本人を慢性的に怠け者にする恐れはないか。GDPに少なからずの悪影響を及ぼし、新指標JPX日経400を引き下げることになりはしないか。

かつて成人の日は1月15日で、2000年から1月第2月曜日に変更されたのだが、1月15日といえば、中国では「元宵節」だ。年の最初の満月の夜だから元宵節(だと思う)。その日までが過年(越年期間)とされる。元宵節には、地域にもよるのだろうけれども、街にはランタンが飾られ、家庭では団子を食べ、満月を愛でる。

数え年で年齢を数えるのであれば、元日にみな一斉に年をとるわけだから、過年のうちで区切りのいい日に新成人を祝おうというのは、まあ理にかなっている。

でも、いまの日本にそれをあてはめるというのはどうだろう。数え年の制度は全く廃ってしまっているのに、成人に達した祝いを一律に正月にやるというのは、いかにも無理がないか。正月に成人の祝いをするにしても、15日というのはいかにも遅い。現代日本人は忙しく、15日間も正月気分でいるわけにはいかない。小正月という言葉もあるけれども、いまや松の内といえば七草粥を食べる1月7日までだろう。1月第2月曜日に変更され多少は正月から成人の日までの日数は短縮されたとはいえ、それでも長い。

その日の夜、母を交えての夕食の席で僕がこの疑問を口にしたところ、母はすぐに
「藪入りだからじゃないの」
と答えた。

藪入り。(ウィキペディアを参照すれば)年中休みなく働いた丁稚奉公人や女中が休暇として実家に帰ることができた日で、1月16日と7月16日がその日に当たる。時代が江戸から明治にかわり暦も旧暦から新暦にかわっても藪入りの習慣は廃ることなく、労働人口の移動がより活発になったことから、かえって一層重要な年中行事のひとつとなった。

なるほど。

若者たちは、元旦前後以上に1月15日前後に故郷へ集まるので、各地方での成人の式典が1月15日頃にとりおこなわれるようになった、だから1月15日が成人の日に定められた   それはいかにもありそうだ。

でも、やっぱり現代社会にあてはめるとどうだろう。いまや藪入りの習慣は消え去ってしまった。もちろんサービス業従事者のうちの少なくない人々は三が日に休むことができず、1月の2度目の週末を待って故郷に帰るのだろうけれども、その人数は元旦前後に帰る人に比べれば圧倒的に少ないはずだ。それなのに未だに1月第2週の月曜日に成人の式典を行うというのはいかがなものか。元旦前後に実家に帰った新成人が、成人式出席のためにもう一度帰るというのもかなりの負担だろうし。

成人式当日にまだ19歳で、同学年のみなと一緒に酒を飲むことができない人もいるだろう。2000年の制度変更の際に、1月15日という日付への拘りを捨てるのだったら、思い切って日程を変えてしまえばよかったのに。いっそのこと4月の最初の月曜日あたりにしたほうがよかったように思うのだけれども、どうだろう。

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posted by osono at 16:24 | Comment(0) | おかしいと思うこと

2014年01月13日

上海外灘のニーケー(ビクトリア)

魔都と呼ばれたころの上海を舞台にした映画を見たことがあるひとなら誰でも知っていると思うが、戦前、いまの延安東路と中山一路が交わるところに勝利の女神像が立っていた。

megami.jpgこの像は、第一次大戦の英仏らの戦勝記念と戦死した居留民の追悼のために、ちょうど共同租界と仏租界の境界である場所に1924年に建てられた。かなり大きかったようで、台座を入れると20メートルを超えたらしい。彼女は当時の上海のシンボルだった。
(写真は「上海影視楽園」にあるレプリカ)

いつごろからだろうか、僕はなんだか彼女に魅かれ、その気持ちは募っていった。そしていつしか、彼女のことをなんらかのかたちで書きたいと思うようになった。

そんなわけで、「上海エイレーネー」では彼女に重要な役割を演じてもらった。

彼女を慕いはじめて以来、僕の頭の中にはずっとひとつの光景があった。

女神像とそれを見上げる少女。背後に太陽があって、シルエットになったふたりが見つめあっている……

「上海エイレーネー」冒頭の女神像と少女とが会話する場面はわずか2ページしかないけれども、僕のあたまの中では何年もの間あたためられたシーンなのだ。このシーンのイメージがまずあって、それを膨らませているうちにこの物語ができあがったといってもいかもしれない。

彼女は太平洋戦争勃発とともに上海に侵攻してきた日本軍によって撤去されるのだが、それと同時に上海は暗黒の時代に突入する。

以下は本作末尾に載せた「モデルとした人々のこと」からの引用。
勝利の女神像は、黄浦江のほとりに立ち上海の街を見守り続けた。しかし1941年12月、太平洋戦争開戦とともに日本軍が上海租界に進駐し、ほどなくして女神像は日本軍によって取り壊されてしまう。日本軍は勝利の女神像を欧米支配の象徴とみなし、それを撤去することにより、日本は上海を解放したのだと喧伝したかったようだが、却って日本の横暴を内外に示す結果となった。上海の富や人材は四散してしまい、第二次大戦終結によりいったん上海は活気を取り戻すが、その後の共産党の勝利によって再び沈む。女神像の撤去以降、上海は守護神を失ったかのように約半世紀にわたる沈滞を経験することになる。

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posted by osono at 23:43 | Comment(0) | 上海

カレンシー・ウォー〜小説日中通貨戦争kindle版発刊

hyoshis.jpg『カレンシー・ウォー〜小説日中通貨戦争』のキンドル版が出ました。大薗の書くものに2000円近くも払えるか、と思っているかた。キンドル版は944円です。ぜひご一読くださいませ。
http://www.amazon.co.jp/dp/B00HQHFRXU/




posted by osono at 21:53 | Comment(0) | 著作