2013年02月27日

上海ー南京間高鉄にて

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巨大な南京南駅


虹橋駅へ行き、切符売り場で僕は確かに「いちばん早くに南京に着く列車を」と言った。

しかし切符売りのおばさんがくれたのは「いちばん早くに上海を出発する列車」の切符だった。

乗車したのは12:40発。杭州始発で上海虹橋駅を経由する列車である。

乗って車内アナウンスを聞いて「しまった」と声を出した。途中停車駅が6つもある。

ipadで検索してみると、僕の列車の南京までの所要時間は1時間54分。3分後に出る次の列車は32分前に、15分後に出る次の次の列車は25分前に、20分後に(虹橋駅ではなく)上海駅を出る列車は13分前、25分後に虹橋駅を出る列車は8分前に南京に到着する。

つまり僕は、東京から名古屋へ行く場合に例えるならば、「のぞみ」ではなく、「ひかり」ですらなく、「こだま」に乗ってしまったのだった。

あたまにきたので、帰りは奮発して「商務座」に乗っちゃうことにした(なぜ「あたまにくる」と、「高い席に乗る」ことにするのか、そのあたりは正しく説明し得る因果関係はない。ここでいう「ので」は、「Therefore」ではなく「所以」だ、と言えばなんとなく説明になっているだろうか)。

料金は429.5元。往路の一等軟座は219.5元だったので、約2倍。でも所要時間がほぼ同じ大宮−仙台間の「はやぶさ」は普通席(つまり中国の二等軟座相当)で10170円であることを考えれば安い。

座席は飛行機のシェル・フラットシートとほぼ同じ。寝て移動できるので、これなら上海−北京間にも使えそう。
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2013年02月25日

南京瞻園

出版前なので詳しく書けないが、次に出る予定の本に、国民政府の特務機関である軍事委員会調査統計局の幹部を同委員会の下っ端ながらも出世意欲が異常に強い男が訪ねてゆくシーンがある。

その幹部のオフィスの場所を参謀本部の中に設定したのだが、昨日、蒋介石の参謀本部があった南京の総統府を見にいってみて、その設定には無理があることに気づいた。
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総統府の巨大なゲート


総統府は巨大な首相官邸といった感じで、庭と儀典や会議の場所は広いが、オフィス用の建物が小さく、蒋介石とその側近が働ける程度しかスペースがない。

参謀本部があるので、同じく実質的な蒋介石直属の軍事機関である軍事委員会も同居していた可能性があると考えたのだけれども、参謀本部全てがそこに収まったかどうかも疑わしい建物で、多数の工作員を抱える軍事委員会が間借りできたとは到底思えなかった。

それで、いろいろ調べてみたら、軍事委員会調査統計局の本部は、南京随一の古典庭園である瞻園の中にあったということがわかった。なにしろ特務機関のことなのではっきりしないことが多いのだが、どうやら主任と、その下にあった三つの「処」のうち、第一処はこの瞻園にあり、第一処長などと仲の悪かった第二処は他の場所にあったようだ。規模が小さく、ランクも下がる第三処も外部にあったようだが、その場所は特定できなかった。本の中のシーンで男が訪ねてゆく先はこの第三処長なのだが、場所がわからないのと、ただの雑居ビルにいてもつまらないので、瞻園に小部屋をもっているという設定にすることにした(ノンフィクションでは許されなくても、このあたりは小説では自由なんである)。

瞻園。こちらは庭園というよりも忍者屋敷のようだった。建物も回廊も入り組んでおり、自分が今いる場所がすぐにわからなくなってしまう。外周には、三メートルはあろうかという、高くて真っ黒の重厚な塀が巡らされている。

暗殺や誘拐を繰り返した特務機関の巣窟にふさわしいと言ってもいい場所であった。
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この建物の一室を訪ねていったことにしようと思う


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2013年02月24日

南京国民党中央党部

南京の雲南北路が湖南路にぶち当たるところにある旧国民党中央党部。

1935年11月、党大会の前の記念撮影中にここで汪兆銘が狙撃され重症を負った。

政府の首相格である行政院長暗殺である。中国近代政治史上極めて重大な事件だが、これを契機にして大荒れに荒れた金融市場を鎮めるために、直後に通貨改革が断行されているので、経済史の観点からも重要な出来事であった。

ウェブで調べると、中国の観光情報サイトのいくつかに35元で参観できると書いてある。

で、さっそく行ってみたところ、現在そこは軍関連の施設となっており、衛兵が二人、銃を持って直立しゲートを守っている。敷地に入っていこうものならすぐに撃たれてしまいそうだ。

でもここは中国である。金儲けが美徳と考えられているのは軍隊においても同じはずなので、ひょっとしたら35元をとって小銭稼ぎをしているかもしれないと思い、衛兵におそるおそる「こ、ここ。参観できますか?」と訊いてみた。

衛兵にとって極めて意外な問であったようで、すぐには理解してもらえず、三度繰り返してようやく「できない」と憮然とした顔で言われた。

ずいぶん前から軍の施設となっているようなので、過去にも観光客に開放されたことはないに違いない。

複数サイトに入場 チケットの料金まで書いてあったのは、おそらく、どこかひとつのサイトがなんらか手違いで誤情報を載せ、他のサイトがそれをパクってそのまま掲載したのだろう。

なお、せめてもの救いと言うべきか、泊まったウェスティン・ホテルから旧中央党部の全景を見ることができた。それが下の写真。
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2013年02月23日

孫中山故居記念館

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宋慶齢が住んだ家というのは中国のあちらこちらにあるが、上海の香山路・思南路交差点すぐそばにある洋館もそのうちのひとつ。慶齢がこの家をよく使ったのは孫文との結婚後すぐの20代から30代の若い頃だが、それはすなわち孫文の死をまたいだ時期なので「孫文が晩年をすごした家」と説明されることが多く、呼称も「孫中山故居記念館」である。

1930年前後にこの家が政治上の重要な舞台となったことが少なくなく、今書いている物語でここでの場面が出てくるので、自分の想像が正しいかどうかの検証のために見にいってみた。

ちょっとした驚きがいくつかあった。

まず、「孫中山故居記念館」で画像検索するとでてくる、玄関前に車を4台くらい停められそうな広いスペースを有する青みがかった灰色の洋館がそれだと思いこんでいたのだが、それは実は、当時はただのお隣さんだったのだそうだ。それを現在記念館として使用しており、故居へはこのお隣さんの建物を通って行くようになっているので、こちらのほうが画像検索で目立ってしまっている。

次に、家の中が意外なほどに小さいこと。1928年に国民党が武漢と南京に分裂しようとしていた時、蒋介石に近い人々が、フランスから武漢へ向かうために上海に立ち寄った汪兆銘をこの家にとどめて、共産党との決別を迫り連日説得するのだが、資料を読むとこの家に十数人が集まったようなのに大人数が一堂に会することができるような部屋がないのである。それぞれが8畳ほどのダイニングとリビングと書斎と寝室。プラス6畳ほどの小部屋。まさか庭で連日の会議を行ったということはあるまいから、リビングのソファセットに汪兆銘と反武漢側の長老格3人が座り、その他の人々はソファの後ろに立っていたのだろうか。その頃まだ若かった宋子文は間違いなくソファに座れなかっただろうけど、ソファの後ろにも立っていなかったにちがいない。彼はその時まだ武漢側でたまたま上海にいたのであり南京への寝返りを決断するより前だし、連日の会議中、彼は全然発言していないようなので、おそらくリビングの隣のダイニングルームのテーブルに一人座り、「あ〜あ。おれんちなのになあ。早く帰ってくれないかなぁ」などと思いながら隣室での討議をただ聞いていたんじゃないだろうか。

それから、1928年6月か7月に、武漢へ帰りたい宋子文が蒋介石の配した監視者の目を盗んでこの家を夜中に抜け出すのだが、こっそりと抜け出せるような経路がない。家の前の道を通らずに思南路に出られるとは思えない。まさか庭の奥の隣家との高い壁を乗り越えて逃げたとも思えないし。監視者は相当に抜けた人間だったとしかおもえない。

などなど、宋慶齢、宋子文の笑いや涙、怒りや恐怖をも感じることができる邸宅にタイムスリップした僕は、あれやこれやと想像を巡らした。

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posted by osono at 18:40 | Comment(0) | 上海

2013年02月16日

紹介記事が掲載された

拙著「カレンシー・ウォー」の紹介記事が、J−CAST、biglobe、infoseekなどに一斉に掲載された。
(例えばこちら)

うれしい。

でも、アマゾンが一瞬で在庫切れになってしまった。

読んでみようか、と思っていただいた方を逃してしまったに違いない。

あぁ。残念。
(来週早々には在庫が補充されるはず)


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posted by osono at 03:37 | Comment(0) | 著作