2012年12月31日

鑑真について書きたい


常々「かっこいい男」について書きたいと思っているのだが、藤田君から「それならば鑑真なんてどうか」との指南をもらった。

確かに不屈の人、鑑真はかっこいい。

鑑真で書けるだろうか、と思い、すぐにアマゾンで2冊注文した。

「鑑真」東野治之著 (岩波新書)
「天平の甍」井上靖著 (新潮文庫)

後者はベストセラーでもあり、長く中国に携わってきたわりにまだ読んでいなかったことは恥ずかしいことなのかもしれない。


失明してまでも六度の日本渡航を試み、最後には成功するという壮大な物語があり、
想像を絶する渡航の困難、密告者の存在、重要な登場人物の死など、アクション・シーンや心に訴えるシーンも織り込め、
ちょうど時代が重なる玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスも絡められるかもしれず、
さらに、昨今日中関係がギクシャクする中で、日中の交流のために尽力した人々を描くことで、社会に対するメッセージも自然に書くことができる。


小説の題材としては理想的ともいえるのだが、2冊の本を読んでみて思ったのは、
「生半可な知識では手を出せない」
ということ。

多数の資料にあたって歴史背景を詳細に調べるということは、歴史モノを書こうとするならばあたりまえのことであって、それがいかに大変そうであっても萎縮してはおられないが、問題は、このテーマで書くのであれば仏教についての深い理解が必要であろうということ。仏教を思想として理解するだけではなく、仏教の制度をもよくわかっていなければ書けそうにない。

ちなみに井上靖氏は京都帝国大学文学部哲学科の卒業で、また、天平の甍の前に同時代の仏教モノ「僧行賀の涙」を手掛けておられる。

鑑真は最初の渡航失敗から10年を経てようやく日本にたどり着いた。

鑑真について書くのであれば、どうやら10年くらいをかけてじっくりと取り組まなくてはならなそうである。
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posted by osono at 18:37 | Comment(0) | 著作

2012年12月29日

iPad miniについての追記

「iPad miniを買った。au版。結構嬉しい」
と、ずいぶんと浮かれたことを書いた
が、しばらく使ってみて、iPad miniには大きな問題があることを知った。

しょっちゅう“落ちる”のである。

キーボードを接続し、ミスタッチをするとクラッシュする。iPad mini君は、入力された英字の文字列を日本語漢字に変換する際、変換する文字をすぐに思いつかないと勝手に考えることをやめてしまい、かつアプリを終了して、不可解な文字列を入力した相手に仕返しをする。

ブログやメールを書いている途中でアプリが落ち、書きかけの文章が何度も消え去ってしまい難渋した。

調べてみると、どうやらiPad miniのメモリが小さいことが原因らしい。初代iPadの256MBに比べればましだけれども、第二世代iPadと同じ512MBしかないらしい。第三世代iPadではメモリサイズは1GBを超えている。

ウェブの閲覧履歴やクッキーを削除したり、キーボードの変換学習をリセットしたり、iCloudの設定をオフにしたりなど、いろいろやってみたらなんとか落ちないようにはなった。でもおそらくしばらくすれば、また落ちるに違いない。そのたびにもろもろ溜まったカスの削除をしなくてはならないのでは面倒極まりない。

それからディスプレイが最新のRetinaディスプレイでないことも不満である。日経新聞の1面全体を表示すると文字が潰れてしまっており、大見出し以外はほとんど全く読めない。

要はiPad miniは第二世代iPadを小さくしたものなのである。第一世代iPadからiPad miniに移った僕は最初に浮かれることができたけれども、第三世代以降に慣れた人は、iPad miniを窓から捨てたくなったことが一度や二度じゃあないに違いない。

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posted by osono at 23:58 | Comment(0) | 日記

武漢上海間はCRH(高速鉄道)で

武漢から上海へはCRH(高速鉄道)に乗ることにした。

時刻表を見ると、一日一便だけ5時間未満で走る列車がある。他のは6時間程度かかり、その便だけがずば抜けて速い。途中停車駅を調べてみると、この便はなんと途中の駅に一つも寄らない。南京も合肥も飛ばしてしまうようだ。

滞在していたホテルからは武昌駅に行くほうがずっと楽だったのだけれども、迷わずに漢口駅始発のこの列車に乗ることにした。
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武漢を出て約5時間後、始皇帝がつくったんじゃないだろうかと思ってしまうほどにバカデカイ虹橋駅に着いた時、「飛行機より鉄道のほうが楽かもしれない」と思った。

鉄道のほうが席は広いし、空いているし、いつでも自由に動き回ることができる。トンネルの中などを除いてほぼ全行程でオンラインで仕事ができ、仕事に厭きれば車窓から華東の田園風景を楽しむこともできる。鉄道での5時間よりも狭い機内で拘束される1時間のほうがずっと苦痛だ。

高速鉄道の車内が飛行機よりもずっと静かであることも楽な理由のひとつだと思う。車内で斜め後ろの席ではDVDを見ていて、斜め前の席ではヒマワリの種をポリポリ食べる音がうるさかったが、ipadにイヤホンを差し込み音楽を聴いて雑音の一切を排除し、仕事に没頭することができた。

それに加えて、鉄道利用は命の危険が飛行機よりもずっと低い(と思う)。鉄道なら事故があってもまず全員死ぬことはないだろうし。

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南京で長江をわたる

武漢から上海までは約830キロ。それを約5時間で走るということは平均時速約166キロ。実は200キロにも達していない。その理由は武漢から南京までは在来線を走るためのようだ。おそらく南京までを時速100キロ強、南京から先を時速200キロ強で走っている。南京から先はカーブの少ないCRHの専用線で、かつ、その専用線だけで複々線になっている。途中で他の走行中のCRHを追い抜いた時は驚いた。

ちょっと不思議だったのは、合肥と南京でそれぞれ数分間停車したこと。時刻表上では停車駅はないのだが。なんのために止まったのだろう。

武漢上海間はCRH(高速鉄道)で その2

2012年12月24日

重慶と武漢

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旧漢口站。北京から武漢への鉄道の終着駅だったところ。
不届きなタクシー運転手のせいで、日没ギリギリの撮影となってしまった。


重慶から武漢に移動した。

世界中のどこの都市へ行った場合でも、その第一印象はかなり良いかかなり悪いかのどちらかであり、その中間ということはまずない。

重慶は前者であり、武漢は後者だった。

(1)重慶は12月中旬だというのに最高気温は20度に近く、最低気温は10度を下回らなかった。暑くもなく寒くもないちょうどいい気候。一方で武漢は寒かった。華南→重慶とまわってきたので、くるくる巻きににしてカバンに押し込んでおいたダウン・ジャケットを取り出して、ヒートテックまで着こんでもまだ寒かった。陽が落ちてからタクシを探してトボトボと歩く長江沿いの大通りはかなり辛かった。

(2)武漢のタクシーは、たまたまそういう運転手に当たったのかもしれないけど、かなり質が悪かった。

空港からダウンタウンへと乗ったタクシーは「ウェスティンホテルへ」と伝えても「知らない」と言い、ipadで地図を見せても、老眼なのか、ちょっと腕を伸ばして見たのちに、すぐに「見えない」と言って地図を見るのをやめてしまった。住所を伝えて走り出すが、漢口にあるマルコポーロ・ホテルへと連れていかれてしまった。ウェスティンは長江の対岸の武昌に所在する。はるかに見当違いの場所だ。

その後なんとかウェスティンにたどり着いたが、思っていたより20分以上余計にかかってしまった。メーターは82元を示しており、運転手に100元を渡すと5元札を戻してきた。「足りないぞ」と言うと、有料道路代が10元だと言う。有料道路代を払った様子はなかったのだが、それにしても82元+10元=92元であり、95元を要求するのはおかしい。それを指摘すると、運転手は笑いながら5元札をひっこめ10元札を差し出した。

チェックインののち、漢口の中心部へ行こうと思いホテルの前でタクシーに乗った。女性の運転手である。

漢口に行くためはいったん左折をしてからトンネルを通っていくのが近いのだが、運転手は左折を試みるもすぐに諦め直進し、次の交差点でも左折のために交差点の真ん中で停車したが、そこでも左折を断念してしまった。その時は、よっぽど気の弱い運転手なのだろう、と思い黙っていたのだが、車はどんどん漢口から離れ、ついには漢陽へ入ってしまった。それでも僕はまだ、ずいぶんと遠回りになったけど渋滞を避けるためなのだろう、と自分に言い聞かせ黙っていた。ところが運転手は、
「もう市内に行きたくない、タクシーを乗り換えてくれ」
と言い出したのだった。

さすがに僕も怒り、とはいえ声を荒らげるのは時節柄よろしくないので、怒りを言葉には出さず、
「じゃあ軽軌(高架鉄道)の駅で下してくれ」
と、妥協した。

運転手はしぶしぶながらも軽軌の駅に向かったが、駅から100メートルほどのところで、
「この路地に入ると戻るのが大変だから」
と言って、いきなりUターンをして車を止めた。

よっぽど怒鳴ろうかとも思ったが、喧嘩するのも体力の無駄だと思い、ただ、
「あんたほど悪い運転手に会ったのは初めてだ」
と捨てゼリフを吐いて車を降りた。

(3)武漢は長江を越えての移動が不便過ぎ。重慶も長江の対岸に宿をとった場合にダウンタウンに行くのが面倒ではあるが、地下鉄がつながっているし、ロープウェイもある。しかし武漢はタクシーを使わなければならず(バスはあるだろうけど)、そのうえタクシーは二台に一台は長江の対岸に行くことを拒否する。加えて長江をくぐるトンネルはいっつも渋滞している。

これらのことに加えて……

(4)今回武漢に行った最大の目的は、今書いている小説の舞台の一つになっている宋慶齢の武漢における住居、すなわち1927年初から夏にかけて武漢にあった国民政府の財政部の建物の中を見ることだったのに、改修中で見ることができなかった。重慶でも蒋介石政権の中枢の住宅群が改修中であったけれども、こちらは建物の外からでも十分に雰囲気を味わうことができたし、一部の建物はドアが開け放たれており、中を見ることができた。しかし武漢では目的をかけらも果たすことができなかった。
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武漢宋慶齢故居=1927年武漢政府財政部
中に入れなかった……


そんなこんなで僕の武漢に対する印象は非常に悪いものとなった。

しかし小説の展開上で重要な位置を占める宋慶齢故居はどうしても見ておかなくてはならない。もう来たくはないけど、近いうちに出直さなくてはならない。

2012年12月22日

坂だらけの重慶

「カレンシー・ウォー 小説・日中通貨戦争」では重慶市内の様子が数度登場する。

例えば
 重慶はどこへ行っても坂ばかりで、華北平原の中に位置する北京や長江デルタに都市が建設された上海とは違い、人力車を主要交通手段とするにはおよそふさわしくない土地である。
 しかしここでは、市内のどこへ行くにも人力車だ。
 自動車もあるにはあるが、ごく一部の政府高官による使用に限られている。インフレーションはモノとモノとの間の相対価格を根本から変えてしまったが、中でも最も高くなったのが燃料であり、他方で最も安くなったのは人の汗である。

 道路わきには露天商が並んでいる。売り手は叫ぶようにして道行く人の足を止めようとし、足を止められたほうは威勢よく値切っている。離れたところからは喧嘩をしているようにしか見えないが、近くで見れば両者のやり取りは何やら楽しげでもある。
 天秤棒の両端に、野菜やら、小動物やら、一見しただけでは何の物体なのかわからないものを提げた人々が忙しく往来している。天秤棒や籠が活躍しているのは、この街が通りから一歩入ればどこもかしこも階段だらけだからである。

などなど。

とはいえ、重慶には過去に一度訪れただけであり、その時には市内を見て歩かなかったので、これらの記述ももろもろ文献を見ながら想像で描いた。

改めて見てみた重慶は想像以上に坂だらけだった。

長江と嘉陵江に囲まれた市中心部分は、川岸は断崖絶壁と言ってもいいほど。中央部分も平坦な部分はめったになく、右へ歩いても左へ歩いても坂。こんなところで人力車が主要な移動手段だったなんて、およそバカげている。空からの攻撃ができない時代は、まったく難攻不落の天然の要塞都市だ。
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ホテルの部屋から見た市中心部。霧で辛うじて見える程度なのがまた幻想的


 大使館のゲートを出た時、眼下に長江が見えた。
 ここへ来る時に乗ってきた人力車の車夫がゲートのすぐ横に座って休んでいる。車夫はヤングが出てきたのを見て立ち上がったが、ヤングは掌を軽く見せて断った。
 そして通りを横切り、コーヒーの入ったグラスにミルクを溶いたような長江へと続く長い階段を降り始めた。

というシーンもあるのだが、当時のアメリカ大使館の所在地(現地下鉄1号線両路口站そば)から歩いて数分のところに、このシーンにイメージぴったりの階段もあった。
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階段を下から撮った写真。このシーンでは上から下に歩いていくのだが、上から撮った写真はステップが見えずよくわからないので


市中心部から長江を隔てて南側に宿をとってしまったので、市中心部へ行くのがやっかいだった。空車のタクシーはなかなか来ないし、地下鉄まで歩くには遠すぎる。長江沿いの路上で待つこと十数分でようやくタクシーをつかまえることができた。

ところが朝天門のそばを歩いていたら長江南岸へのロープウェイがあった。ロープウェイ降り場からホテルまでは歩いて15分ほどだった。
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段階絶壁を一気に下り、長江を飛び越えて対岸に着く



posted by osono at 20:46 | Comment(0) | 著作

2012年12月20日

重慶の金ピカホテル

ホテルにチェックインする時、ホテルのスタッフが妙に丁寧な場合はそのホテルは外れであることが多いように思う。

丁寧すぎるのは、たいてい不慣れであることの裏返し。

重慶のシェラトンホテルがそうだった。

まず、チェックインにすごく時間がかかり、
部屋のドアは力をいれてひっぱらないと閉まらないし、
外出しようと思い、ボーイにタクシーを頼むと「道路のこちら側はなかなかつかまりません。ほら対岸なら空車がありますよ。あちらに行ってみてはどうですか」と言われた。

その夜はホテル内のレストランでビュッフェの食事をすることにした。カウンター越しのコックに麺をゆでるよう頼んでから他の料理をとりに行ったのだが、そのコックはなにやら他の客と雑談を始めた。料理を一通り取り終わりテーブルについてもまだコックは話し込んでいる。5分ほど経って、いくらなんでもおかしいだろうと思いコックに「麺はまだか」と訊いたら、「すいません。忘れていました」だって。

実はチェックインする直前から、このホテルには怪しさを感じていた。

入口のすぐ前に写真の車が止まっていたのである。
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き、き、金色のリムジンって。。。。。。

ロビーも部屋も金ピカだった。

日本人でこれほどまでに金を好むのは、おそらく豊臣秀吉と足利義満しかいない。
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ビルも金ピカ

重慶抗戦遺址博物館へ(2)

蒋介石ら国民政府幹部たちの山間の疎開先、すなわち現在「重慶抗戦遺址博物館」と呼ばれている場所は、「カレンシー・ウォー
小説・日中通貨戦争」のいくつかの舞台のうちの一つである。

「1939年 重慶」の章では、

アーサー・ニコルス・ヤングの乗った車は、重慶市の東郊外の緑深い山間に入っていった。この曲がりくねった上り坂にさしかかると、ヤングはいつも、出口のない迷路に迷い込んでいくような感じがするのだった。

この道の先に、木々の間に隠れるように国民政府の中枢がある。いや、隠れるように、ではなく、まさに隠れるために政府はこの山奥に移ってきた。

四本の太い柱に支えられた重厚なゲートをくぐり、林の中に通された細い道を抜けると、霧に覆われた木々の中に十数棟の瀟洒な戸建てが点在する場所に出る。

ヤングの目には、この濃い霧に包まれた邸宅群が雲上の宮廷にしか見えないのだった。


等々の記述がある。

実を言うと、この場所を見ずにこれらを描いた。全くの想像で描いた。

グーグルの航空写真を見て風景を大まかにイメージし、ウェブ上に載っている写真を片っ端から見てそのイメージを固めた。そして当時の重慶について触れている古い文献を見てイメージを補強した。

しかし想像だけで描いているのでかなり不安で、実際に見て確認したかったのだが、尖閣問題の発生のために渡航を取りやめ、結局確認できずに出版に至ってしまった。

で、事後になってしまったけれども、その検証をしたのである。

検証の結果は……

我ながら、なかなか悪くない、と思った。それをちゃんと模写できたかどうかは文章力の問題であって、イメージはほぼちゃんとできていたようだ。

重慶抗戦遺址博物館へは、曲がりくねった道を延々と上っていく。路線バスが遅いせいもあるが、行けども行けども目的地に着かず、次第に高度が高くなり霧が深まっていく様は、まさに迷宮に迷い込んでいくかのようであった。

ようやくたどり着いた重慶抗戦遺址博物館は改修中で閉鎖されていたのだけれども、チケット売場にいたオバちゃんに「わざわざ遠くから来たのだから」と頼み込んでみた。

オバちゃんは、「建物には入れないわよ」と言いつつ、ゲートの中に入ることを許してくれた。

ゲートを抜けると、写真のとおり

深い霧に覆われた細い道が林の奥へと続いていた。
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それを抜けた先にはテニスコート二面程度の広場があって、広場を中心にして林の中にパラパラと戸建てが散らばっていた。霧のかかり具合、頬が引き締まる程度には冷たくそれでいて寒さを感じさせない気温、木々の間に二階建ての建物が見え隠れする様、各建物へと続く小道の曲がり方など、あたかも早朝の北軽井沢か蓼科の別荘地の中に立っているような感覚だった。
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宋美齢邸のバルコニー。ここにチェアを出してくつろぐ彼女を想像した


一方でイメージと少し違ったのは、各建物がそんなに大きくはないということ。宋美齢や孔祥熙などが豪邸に住んでいた様を想像したのだが、実際に見ると、高級ゴルフ・リゾートを取り巻く大きめの別荘、という程度の大きさだった。宋美齢が空軍の、孔祥熙が財政部の会議のためにも自分の家を使い、蒋介石邸は首相官邸としての機能も有していたことを思うと、むしろ狭いと言っていい規模の建物であった。

民衆が苦しむ中で贅沢をする国民党幹部、という雰囲気で描いたのだが、多分に共産党の宣伝に影響されていたかもしれない。

蒋介石邸が山の頂にあったということも、僕のイメージとは少なからず異なっていた。まるで天守閣のように、他の邸宅を見下ろすような位置である。作中では孔祥熙邸が最も大きいものとして描いたのだが、見たところ蒋介石邸のほうが、少なくとも床面積はずいぶんと広いように見えた。
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孔祥熙邸。孔祥熙と妻の靄齢はすぐに別の場所に引っ越し、そののちは娘の令俊がここに居住した


孔祥熙や宋子文が、その業績の割に中国での評価が低く、そのために日本であまり名前が知られていないという状況を憂い、そういった人たちに正当な評価を与えたいと思っているのだが、やはり共産党の評価に影響されているのかもしれない。

蒋介石邸へと続く霧の中の長い階段を見上げながら、物書きとしてこんなことではいけない、と大いに反省したのだった。

posted by osono at 00:55 | Comment(0) | 著作

2012年12月18日

重慶抗戦遺址博物館へ(1)

蒋介石の国民政府が南京を逃れ重慶にこもったあと、国民党の幹部は重慶市の南西郊外の山間に隠れるように住んだ。

今そこは「重慶抗戦遺址博物館」として公開されている。

市内の観光地ではないので、どうやって行くか、まずそれを考えなくてはならなかった。

普通ならタクシーで行くところだが、ホテル周辺で流している車が少なく、また、尖閣問題以来の対日感情悪化を考えると、タクシーで未知の場所まで行き、そこで運転手を待たせて同じ車で帰ってくるというのも、なんだか気が重かった。

ではホテルで車をチャーターしてしまおうかとも思ってコンシェルジェに値段を訊いてみると、ずいぶんと高いことを言う。

ウェブで調べると、384番のバスが重慶抗戦遺址博物館の正門前に止まることがわかった。さらに調べてみると、なんとそのバスはホテルのすぐそばを通る。目的地に行ける唯一の路線バスがホテルのそばを通るなんて、なんてツイているのだろう、と思い、結局バスで行くことにした。

市外へ向かう路線バスなど本数は少ないに違いないと思い相当に待つことを覚悟していたのだが、停留所について2分もしないうちにバスがやって来た。

しかし、いいことが続くと、なぜか、そのあとには悪いことがあるものである。乗客の数がだんだんと増え、やがてまっすぐに立っているのもしんどいくらいになってきた。

さらに、バスが死んだ。停留所で止まって、エンストしたかと思ったらエンジンがかからなくなった。

エンジンが止まってから数分が経ち、これはだめだな、と思い始めていたのだが他の乗客は辛抱強く出発を待っている。

僕は後ろの窓からバスの後方を見ながら、
(タクシーが来たりしないかなぁ)
と思っていた。

二つの悪いことが続いたので、次はいいことが発生する番なのか、フロントグラスに「空車」の文字を点けたタクシーが近づいてきた。僕は乗客を押しのけてバスの外に飛び出し、そのタクシーをつかまえた。

ところが、その次にはいいことは続かなかった。それどころか、最悪と言ってもいいことが発生した。

重慶抗戦遺址博物館が维修(修繕)のためクローズしていたのだ!

(この話の続きは、また明日)

2012年12月17日

中国国内線のウェブ予約

中国で国内線に乗る時はたいていあらかじめ予約はせず、空港に行ってから次に出る便の航空券を買う。そうすれば時間を気にしないで済む。朝、寝たいだけ寝られるし、空港までの路で渋滞にはまってもイラつく必要ががない。

ただそれは上海から北京や広州に飛ぶ時など、一日にいくつものフライトがある路線において可能なのだ。今回は重慶行きで便数が限られ、特定の便に乗れないと困るので事前に予約をすることにした。

予約をしようと思い立ったのがフライトの前日の23時頃。

ctrip のサイトで予約を試みるもうまくいかない。料金支払いに海外発行のクレジットカードも使えるとの説明が書かれているにもかかわらず、クレジットカードの種類の選択画面では中国国内発行のクレジットカードの中からしか選択できないようになっている。

簡体字ページで予約をしようとしていたのだが、では、日本語画面では日本発行のクレジットカードも選べるのではないかと思って試してみるが、今度はなんと、行き先の中から重慶を選ぶことができない。

じゃあしょうがない、英語画面はどうだ、と試すが、行き先に重慶を選ぶことはできたが、簡体字ページと同様、国外発行のクレジットカードを選べない。

あたまにきたので、ctripで予約することをやめ、e龍で予約をすることにした。

こちらは順調に国外クレジットカードを使って予約完了画面までいくことができた。

ここまでで一時間以上を費やしており、やれやれと思いながらメールをとりこんでみると、e龍から
「予約はまだ完了していない。クレジットカードの確認をしたのちに、明日の正午までに連絡をする」とのメッセージが入っていた。

明日の正午って。。。飛行機の出発時刻は11時である。まにあわないじゃぁないか。

いやになってその日は寝て、翌日、ともかく空港に行くしか術はない、と思いつつ8時にホテルを出た。

9時ころ、メールをとりこんでみるとe龍から「予約できたよ」とのメッセージ。

結局思った通りの便に乗れたわけだが、かなりの疲労感が残った。
あとでわかったこと
posted by osono at 22:16 | Comment(0) |

2012年12月16日

チムシャーツイから香港島を望むシーン

香港でのランチについて希望はあるか、と訊いていただいたので、ずうずうしくも「チムシャーツイで香港島を一望できる店を」とリクエストさせていただいた。

店はチムシャーツイのiSquare(国際広場、ネイザンロード63号)29階、阿一海景飯店。リクエストどおりのすばらしい景観のレストランで飲茶をいただいた。

それで、このリクエストの理由は、「カレンシーウォー 小説日中通貨戦争」の中で、イギリスの財務官、エドマンド ホール=パッチがペニンシュラの最上階の部屋で香港島を眺めながら独白する場面があり、その模写を正しく書いたかどうか確認しておきたかったから。

その場面というのは、

南からの海風を抱くように、ザ・ペニンシュラは「コ」の字型に建っている。エドマンド・レオ・ホール=パッチは、その南東端最上階の部屋の窓辺に立ち、太陽光線をきらきらと反射しているビクトリア・ハーバーの上を忙しそうに行き来するフェリーを飽きることなく眺めていた。

眼下のフェリーが向かう先の香港島は、海面から背中を覗かせる巨大な動物のようである。

1841年にイギリス海軍がこの島を占領したとき、バラン・ロック、すなわち不毛の岩山と呼んだと言うが、それは嘘か見間違いに違いない、とホール =パッチは思った。山肌は緑で覆われ、広い庭園を有する白亜の邸宅が斜面一帯に広がっている。

香港には太陽があり、海があり、山があり、緑がある

という書き出しで続いていく。

店からとった写真がこちら下矢印2
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それから、スターフェリーの乗り場の横で撮った写真がこちら下矢印2
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posted by osono at 19:53 | Comment(0) | 著作